ちくまプリマー新書

「ネット上の分断」では終わらない――政治・経済にも影響を与えるソーシャルメディア
『ネットはなぜいつも揉めているのか』より「はじめに」を公開

日々起きる事件や出来事、問題発言をめぐって、ネットユーザーは毎日のように言い争っている。なぜ対話は難しいのか。社会やメディアのあり方を考える『ネットはなぜいつも揉めているのか』より「はじめに」を公開!

はじめに

 朝、目を覚ますとツイッター(現X)を開くところから私の一日は始まります。

 夜のあいだに通知は来ていないか、新しい話題や動きが出てきていないかをチェックするためです。私のタイムラインでは日々、何らかの対立が発生しており、私自身がそこに加わっていることもあります。私がフォローしている人同士が言い争っているのも珍しくはなく、ヒヤヒヤしながらその顚末を見届けることになります。

 もっとも、これは私がフォローしている方々の多くが研究者や新聞記者であることに関係しているのかもしれません。ツイッターでは誰をフォローするのかによってタイムラインのありようは全く変わってきます。私のタイムラインでは政治学の方法論について激しく意見が戦わされているときに、長女のそれではユーチューブで人気のゲーム配信者について楽しいコメントが並んでいたりします(時折、ファンとアンチとのあいだで抗争が起きることもあるようですが……)。

 その意味で、この本の主題はソーシャルメディアのなかでもマイナーな領域を扱ったものだと言えるかもしれません。アニメやドラマ、スポーツといった楽しい話題をよそに、政治、経済、社会、学問などのさまざまな問題をめぐって日々激しい対立が展開されているソーシャルメディアの辺境地ではいったい何が起きているのか。なぜ対立が果てしなく続いてしまうのか。それが本書のメインテーマです。

 ただし、マイナーだとしても、重要性の低いトピックだとは限らないという点には注意が必要です。ソーシャルメディア上の論争には社会的に大きな発言力をもつユーザーがしばしば関わっていますし、現在ではテレビや新聞などのマスメディアもソーシャルメディアの動向をよくみています。ソーシャルメディアで生まれた動きが、ネットメディアやマスメディアを経由して大きな反響を生じさせることはもはや珍しいことではありません。ソーシャルメディア上での抗議活動が大きなうねりとなり、政府や企業に何かしらの対応が求められるという現象も発生しています。

 言い換えると、たとえツイッターやインスタグラムの熱心なユーザーではなかったとしても、一消費者として、あるいは一企業人として、あらゆる人びとがソーシャルメディアとは無関係ではいられなくなってきたというのが今日の状況なのです。新型コロナウィルスの感染拡大にさいして、ソーシャルメディア上でのデマによってスーパーからトイレットペーパーが一時的にではあれ姿を消したのも、その一例と言えるでしょう。

 現在、私たちは日々、国会から企業、学校から家庭まで、空気を吸うようにメディアを利用しながら生きています。そうした日常のなかで、ソーシャルメディア上でどのようなコミュニケーションが行われ、個々人がそれとどう付き合うべきかというテーマは、政治家やマスコミ関係者だけでなく、私たち一人ひとりにとって重要な意味をもちうるようになっているのです。

 メディア研究では、このようにメディアが社会の隅々にまで浸透し、そこに生きる人びとに大きな影響を与えるようになった状況を指して「メディア化(mediatization)」という言葉が使われることがあります。個々人が接する情報の量や中身が変わるだけでなく、経済、政治、社会のさまざまな制度のあり方がメディアからの影響を受けるようになっているということです。最近の例で言えば、コロナ禍によって学校や職場のオンライン化が一時的に進みました。そのことが何らかの影響をコミュニケーションや人間関係にもたらしたとすれば、それもメディア化の表れと言うことができるでしょう。

 ただし、メディアは一方的に社会に影響を与えるわけではありません。メディア技術が採用されるのか、実際にどのような使われ方をするのか、いかなる変化をもたらすのかは、個人や社会によって大きく異なるからです。コロナ禍が一段落することで対面的なコミュニケーションへの回帰が起きていますが、これも技術利用に対して社会の側の論理が強い影響を与えていることの一例と言えるでしょう。

 ソーシャルメディアについても同様であり、それらが一律に同じ影響を個人や社会に与えるわけではありません。はっきりと言葉にするのには躊躇しますが、ツイッターが好きな層とインスタグラムを好む層には何かしらの違いがあるような気がしますし、だとすればその影響にも違いがみられるでしょう。

 したがって、本書ではソーシャルメディアの特性だけでなく、それを取り巻く政治的、社会的文脈についてもかなりの紙幅を割いて論じます。一見すると、ソーシャルメディアとは関係のなさそうなトピックが出てくることもありますが、背景情報として読んでいただけると幸いです。また、本書には見慣れない言葉がいくつか出てくるかもしれませんが、その都度、なるべく丁寧に説明していく予定です。

 もっとも、本書を読んだからといって、現代の政治や社会のありようがすっきりと理解できるとか、ソーシャルメディア上を行き交う噓やデマに騙されないとか、ネット炎上しなくなるとか、そういったことは全くありません。私自身、何が事実で何がそうでないのかについて判断がつかないトピックは山のようにありますし、ネット上では何度か炎上しています。ましてや、こうすればネット上で頻発する激しい対立を緩和できるといった解決策も提示できません。

 むしろ、本書を読み終えたあとに残るのは、モヤモヤとした不快感だけかもしれません。ただ、せっかく読んでいただいた方をモヤモヤさせただけで終わるのもいかがなものかと思いますので、本書の最後では現時点で私が考えるソーシャルメディアの「最良の可能性」について少しだけ述べておきます。個人としてソーシャルメディアといかに向き合うべきかを考えるためのヒントにしていただければ幸いです。

 以上のゴールに向け、第一章では私自身が体験した炎上案件をおもな題材として、近年のソーシャルメディア上での重大争点である「表現の自由」をめぐる問題について論じます。

 テレビ番組や広告、ポスターなど、さまざまなメディア表現に対する批判がソーシャルメディア上で巻き起こる一方、それを表現の自由にたいする脅威として反発する動きも強くなってきました。ただし、表現の自由については法学の分野で膨大な議論の積み重ねがあり、それを包括的に論じるのは私の能力的にも困難です。そこで、ソーシャルメディア上で議論になりやすいポイントをいくつかに絞り、さらには法律論にはあまり寄せないかたちで議論を進めたいと思います。

 第二章では、「表現の自由」の問題を離れて、インターネットを介したコミュニケーションそれ自体の特質について検討します。インターネットが普及していった時期、それが生じさせうる脅威を危惧する声が上がる一方、新たに生まれるであろう言論空間への期待もさかんに語られました。しかし現在では、そうした期待はかなりしぼんでしまっています。

 この章ではネットを介したコミュニケーションがなぜ揉めやすいのかをメディアとしての性質に即して論じてみたいと思います。ここでのポイントは、ソーシャルメディアがまさに「ソーシャル」であるがゆえに、公共的なコミュニケーションにおいて重要となる対等性の原理と摩擦を生じさせてしまうということです。

 第三章ではソーシャルメディア上での対立において「被害者」としての地位をめぐる競争がなぜ生じるのかという問いから議論を始めます。一方では自分たちの被害者性を強調しながら、他方では敵対する集団のメンバーと思しき人物が被害者であることを否定し、バッシングを展開するという事態がしばしば生じるからです。

 この章では、そこから米国における被害者政治の展開と、その背景となっている同国の政治的分極化についてより詳しくみていきます。日本の政治的、社会的状況とは大きく異なるとはいえ、米国で生じている現象は日本のソーシャルメディア上での対立を分析するうえでも参考になるからです。この章の重要な目的は、インターネット上における分極化との関連でしばしば言及される「エコーチェンバー」や「フィルターバブル」といった考え方に修正を加えることにあります。

 第四章では、とりわけ日本のソーシャルメディアでの対立を考えるうえで重要になる「迷惑」の問題を取り上げます。戦後における社会変動の結果として、日本社会で暮らす人びとの行動様式や価値観は大きく変化してきました。一方においては彼/彼女らのマナーやモラルの水準は大きく上昇し、他方においては他者に対する寛容さを増してきました。にもかかわらず、ソーシャルメディア上では他者の迷惑行為にかんする論争や糾弾が頻発しています。

 ここでは、礼儀正しく、他人を尊重するからこそ、他人のことが許せなくなるというパラドクス(逆説)について述べるとともに、その批判の矛先が時としてマスメディア批判へと向かうことを論じます。あわせて、ソーシャルメディア上でのマスメディア批判がいかなる背景のもとで展開されているのか、そうした状況のなかでマスメディアがどのように変化してきたのかについても検討します。

 第五章では、民主主義とソーシャルメディアの関係という大きなテーマに目を向けます。近年では世界的に民主主義が危機的状況にあるとの言論がさかんに展開され、危機を引き起こす要因の一つとしてソーシャルメディアの問題が論じられるようになっています。

 ここではソーシャルメディアが民主主義にとってなぜ危険だとみなされているのかを論じ、とりわけそれが人びとをどのように沈黙させ、また分断するのかについて考察します。この章の最後では、ソーシャルメディア上で人びとを分断する境界線と、その境界線を決めるうえで大きな役割を果たす「争点の選択」という問題に焦点を当て、そこで生じている対立の性格についてより踏み込んだ考察を行います。

 終章では、ここまでで詳しく論じることのできなかったカテゴリー化とシニシズムの問題に注目し、それらがいかにして対立する集団に関する嫌なイメージをつくりあげ、結果的に憎悪を強めていくことになるのかを説明します。さらに、それとは対極的な他者理解の方法をソーシャルメディアの「最良の可能性」として紹介することで結びにしたいと思います。

 以上のように本書は、さまざまな学問領域や調査結果の知見を借りながら議論を進めていきますが、そのさいには私自身の経験や、大学生から私が聞き取った逸話なども紹介していきます。こう書くと主観と思い込みで書かれた本だと思われるかもしれませんが、それらはあくまでわかりやすく説明するための事例として考えていただけると幸いです。ただし、第一章のネット炎上経験については、当事者である私の見方がかなり入っていますので、その点は割り引いて読んでいただきたく思います。

 また、本書が扱うのはソーシャルメディアのなかでも、とりわけツイッターが中心となります。私自身がもっとも馴染んでいるというのが大きいのですが、いくつかの研究でも示されているように、他と比べてもツイッターでは大規模な対立が発生しやすいことから本書のテーマを考えるうえで最適なサービスだと言うことができます。なお、本書の執筆中にツイッターの名称が「X」に変更になりましたが、本書で取り上げる研究はほぼツイッター時代のものですので、本書も旧名称を使用します。

 なお、念のために書いておくと、私のような立場の人間が自分のネット炎上について書くと、「最初から本を出すつもりでわざと炎上させたのではないか」と勘繰る人もいるかもしれません。当時においてそういう意図は全くありませんでしたし、今回のお話をいただいたときにも「ご自身の炎上について書いてください」と言われたわけではありません(長年にわたってツイッターをやっていると、どうしてもこういう「予防線」を張っておきたくなります)。ただし、そのようにシニカルな勘繰りが生じうること自体が、本書の重要なテーマの一つです。



『ネットはなぜいつも揉めているのか』

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