ちくま文庫

グッドタイムズ・バッドタイムズ
渡辺明『増補 頭脳勝負――将棋の世界』文庫版解説

『将棋の渡辺くん』などでも有名な渡辺明棋王による将棋本『増補 頭脳勝負』。将棋のこと、将棋界のこと、対局中の心理、休日の過ごし方まで、将棋にまつわるあらゆることを渡辺さんらしく、親しみやすく、時に鋭く語り尽くします。そんな渡辺さんとの交流を、『聖の青春』等でも将棋界を書き続けてきた大崎善生さんに書いていただきました。人気作家が描く渡辺棋王の知られざる素顔とは。お楽しみください。

 

 渡辺さんとはときどき酒を飲んだ。お互いの息子が同じ幼稚園に通っていたということもあるし、母親同士に親交があるということもある。最大の理由は住んでいる場所が近いということかもしれない。 

 隣町の西荻窪で飲むことが多かった。西荻在住の先輩として何軒か評判の良い店を紹介した。ある焼き肉屋では知らないお客さんから「よっ、竜王!」などと声を掛けられ、渡辺さんは「焼肉と将棋と競馬は客層が合うんですよ」と照れ笑いを浮かべるのだった。

 十年以上前から私は一口馬主をはじめた。仕事に追われ家から一歩も出られない日が続いていた。馬券を買うのは中継を観たり何よりも検討をしなければならず、下手したら一日中時間を取られてしまう。ところが一口馬主ならば、自分が出た馬のレースだけを応援すればいい。ひどいときは一分で済む。そして部屋に戻ってまた原稿書き。そんな日々を送っていたときに、その競馬クラブの社長から会報にエッセイを連載してくれないかと頼まれた。おお、これぞ趣味と実益かなどと後先考えずに安請け合いする。クラブの会報である以上、血統がどうだ馬体がどうだ牧場の様子はどうだなどと馬の情報ばかりに溢れている中、私の連載は異彩を放っていた。将棋のことばかり書いていたからである。これが六年間も続いたのだから不思議な話で、しまいには詰将棋でも出題してやろうかとすら考えていた。

 それはともかく、そんな私の連載に反応してくれたのが渡辺さんだった。私が会報にエッセイを書いているという理由で、同じクラブに入会してくれたのである。クラブ側からそう説明を受けて、それは胸が一杯になるように誇らしくまた嬉しいできごとだった。「竜王を連れてきたんだから、いい馬を持ってこい!」という気分である。

 最近は棋士の言動が面白くなってきた。師匠や先輩に気を使いながら敵をつくらないような優等生的な発言を繰り返す棋士が多かった中、渡辺さんの舌鋒は常に鋭く胸がすいた。本書にも出てくるが、六人の棋士たちが局面を言い当てる人気企画で、ある局面を出題された渡辺さんは一秒で「こんなの常識です、奨励会のころからの」と答えてみせたのだ。それはいいのだけど、そのあとに出てくる棋士がそれを知らないでうんうん考えているのに思わず笑ってしまった。あの企画も渡辺さんがいるといないでは歯切れがまるで違う。渡辺さんは将棋が強いのは間違いないのだろうが、何かそれ以外に世界を楽しくさせてくれるような才能を秘めているのではないだろうか。

 将棋界に大きな騒動が起こり、渡辺さんはその主役となった。この二年近くは大変な思いをされたことだろう。竜王を失い、まさかのA級から陥落と信じられない後退を余儀なくされた。私の好きなブリティッシュロックの曲に「グッドタイムズ・バッドタイムズ」というのがある。その通り、誰だって好い時もあれば悪い時もある。真っ暗な時期。しかしそんな最中でも、順位戦はどうしても夜眠くなってしまう、という発言には大笑いした。夜十一時には眠くて眠くて……。あんなに追い詰められたように見えても、少しも変わっていないおとぼけ発言と、それを支える精神力に驚いた。

 私が渡辺さんをはじめてみたのは、四段に昇段した日。もう二十年近く前のことになる。一人の奨励会員が年齢制限で去ることになり、事務所の扉の前で大きな声で「今までお世話になりました」と挨拶して消えていった。そのあとに渡辺さんは私の部下に連れられて編集部に現れた。史上四人目の中学生棋士の誕生ということで、周りは沸き立っていたが、本人はちっとも嬉しそうじゃなかった。何を騒いでいるんですかという感じで、藤井聡太さんもそうだけど、みんな何というか動揺もせず逞しい。

 騒動の最中に一度、飲みにお誘いしようかと思ったのだが、やめておいた。そのかわり十年以上買い続けて、やっと自分の馬が重賞を勝ったことをメールで伝えた。渡辺さんからは一口馬主はしばらく撤退するという返事が来た。やはり何かを自重しなければいけない責任を感じているのだろうか。しかしそのメールをいただいてしばらくして、不調に陥っていた渡辺さんに少しずつ白星が集まるようになり、虎の子の棋王を防衛した。この防衛と同時に新しい場所に渡辺明は踏み出したのではないかと私は感じている。

 数年前に渡辺さんを連れて行った西荻のジャズバーがある。二年ほど前にその店が閉店することになった。カウンターで一人飲んでいると、口数の少ないマスターがぼそりと「渡辺竜王によろしくお伝えください」という。「えっ?」と私が聞くと、その店が気に入ったようでときどき一人で飲みにきてくれていたというのだ。なんだか涙が溢れそうになった。

 まったく私は知らなかった。

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