ちくま新書

ネガティブな言葉から現代中国の複雑さを理解する、変な中国語の本ができた理由
『闇の中国語入門』より「はじめに」「挣扎(もがく、あがく)」

「生活が苦しい(日子很难过)」「ひとりぼっちだ(很孤单)」「もう精神の限界です(我的精神快要崩溃了)」。
楊駿驍さんによるちくま新書『闇の中国語入門』は、心と社会の闇を表現する45の言葉から読み解く、かつてない現代中国文化論です。この異色の中国語読本は、どのように生まれたのでしょうか? 同書より「はじめに」と、「挣扎(もがく、あがく)」の項をを公開します。

 あるエピソードから始めましょう。

 4 年前、大学で中国語を教えることになったのですが、文学や文化論を専門とする私は語学教育に関してほとんど素人でした。そんな私のために、かつての指導教官が段ボール3 箱分の中国語教科書を送ってくれました。カリキュラムを作る参考にしなさいということでした。しかし、ダンボール3 箱分となると、部屋のなかまで運ぶには重すぎるし、場所を取るので、そのまま玄関のところに座って、1 冊ずつ取り出しながら読んでいきました。全部で100 冊以上はあったと思います。

 基本的に2000 年代のものが多かったのですが、中には80、90 年代のものもあり、CD ではなく、カセットテープが添付されたものもありました。

 4 時間ぐらいかけて、すべての教科書に目を通しました。これほど多くの中国語教科書に一気に目を通した経験はなかったし、これからもないでしょう(そうであってほしい)。最後は授業で使えそうなものを1 箱分残して、ほかは全部処分しました。

 しかし、カリキュラム作成の参考という最初の目的とは別に、それらに目を通していく過程でいろいろと気づくことがありました。いや、気づくというより、何か圧倒されるようなものを感じたのです。

 たとえば、ほとんどの教科書の本文の会話に、みんなで仲良くなること、何か外国人は知らないが中国人ならよく知っている物事(料理や伝統文化など)を紹介すること、授業を頑張る(あるいは何かを頑張る)こと、うれしい、楽しい、興味深い、驚嘆のようなポジティブな感情などがテーマまたは重要な要素として織り込まれていました。はっきり言ってみんな意識が高く、希望を持っていて、やる気や好奇心に満ちていたのです。さらに、同級生ならみんな仲が良く、何か嫌なことやわからないことがあったら熱心に助けてくれるし、家族なら一家団欒を楽しみ、会社なら上司はやさしく、道で会った知らない人でも道を熱心に教えてくれるだけでなく、自分に関心を示してくれます。

 正直、私はこのような世界に生きたことがありません。これらの教科書が示しているのは、どこにもない場所のように感じたという意味で、「ユートピア」でした。

 もちろん、希望を持ち、やる気や好奇心に満ちる人は普通にいるでしょうし、やさしい同級生、家族、上司など別に珍しくもなんともないでしょう。しかし、問題は、私が4 時間かけて、ダンボール3 箱分の中国語の教科書に目を通したのにもかかわらず、そのような世界にしか出会わなかったことです。外国語を学習することとは世界を広げることであるとよく言われますが、これで本当に世界が広がるかどうか、そこに多様性があるかどうか、疑問に感じざるをえませんでした。

 私の知っている中国の世界ははるかに複雑です。笑っていると思ったら次の瞬間に泣き崩れたり、仲良くしていると裏切られたり、のほほんと生きているように見えて世界全体に強い敵意を持っていたり、とてもやる気のある人だなと思ったら鬱になったり、やさしさに定評があるが話しているとそもそも人間の命をなんとも思っていなかったり……。挙げていくときりがありませんが、こういう深い「闇」を抱えている人は(中国に限らず)結構いるような気がします。ここまで極端な例でなくても、何らかの「闇」の一面を日常的に抱えて生きているという状態のほうが、はるかにリアルなのではないかと思います。

 したがって、こういった複雑さを伝えることのできる教科書、より複雑性に配慮した教科書があってもいいのではないかと考えました。とはいえ、私は何も「これこそあなたたちの知らないリアルな中国だ!」としたり顔で言いたいわけではありません。そうではなく、時には異質な者同士をつなげ、理解し合うきっかけとなるのは、仲良くなりたいという意志、理解しようとする心構え、または知的な好奇心といったポジティブなものではなく、むしろ悩み、恨み、悲しみ、不確実さ、災厄、恐怖などのネガティブなものに対する共感だと考えているのです。また、自分自身を反省し、新たに生まれ変わり、世界が広がるきっかけとなるのも、変わろう、世界を広げようという強い意志ではなく、しばしば何もかも嫌だというような否定的な感情だったりします。ですから、中国語の学習を通して、異質な文化を理解し、その文化の中にいる人たちとつながり、さらには自分の世界を広げ、自分自身を広げるためには、ぜひとも「闇の中国語」が必要なのです。これこそ本書を執筆しようと考えた理由です。

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楊 駿驍

闇の中国語入門 (ちくま新書 1798)

筑摩書房

¥990

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