ちくま学芸文庫

近代哲学の原点はすべてここにある!
『デカルト入門講義』――はじめに

17世紀ヨーロッパを代表する科学者であったデカルトは、自然科学の礎たる知識としての第一哲学=形而上学の構築に乗り出す。なにひとつ信じられるものがない「懐疑」の状態から発し、それでも絶対疑えない原理「我あり」へ、そして「神あり」「物体あり」と証明をすすめ、人間の知識の世界を再構築した彼の哲学とは? また、自然学における主著『世界論』『人間論』を通して、どのような自然学的論理を展開したのか? スピノザ、ロック、ライプニッツ、バークリ、カント等々、その後のほぼ全西洋哲学の基本路線に継承され強烈な影響力を与え続けた理由に迫る。

 ルネ・デカルト(René Descartes, 1596–1650)。我が国では、「我思う、ゆえに我あり」や、「コギト・エルゴ・スム」で知られていますが、彼は、当時のヨーロッパを代表する科学者でした。そのデカルトが、科学者・数学者としての仕事と並行して試みたのが、諸学の基礎を与える新たな「第一哲学」(別名「形而上学」)の確立でした。
 デカルトの第一哲学(形而上学)は、彼の自然科学の仕事とともに、長い間西洋世界を支配してきたアリストテレス風の考え方に異議を唱え、学問のあり方を刷新しようとするものでした。その意味で、それは、人類の歴史の中の、きわめて重要な結節点の一つをなしています。
 実際、デカルトの第一哲学の影響力の強さは、あとに登場するスピノザやロック、ライプニッツ、バークリ、カント等々の思想に如実に表れます。すべてを疑いの中にもたらし、その結果唯一疑えない「私はある」を第一原理とし、その「私」を「心」と捉えた上で、すべてを私の心の中から再構築していこうとするその基本路線は、その後西洋近代の「主観主義」として、ドイツ観念論を支えたフィヒテやシェリングやヘーゲル、さらには現象学のフッサールに至るまで、さまざまな人々によって多様な仕方で継承されていきました。
 そのデカルトの第一哲学を最も詳しく述べた彼の著書が、一六四一年に出版された『第一哲学についての省察』です。本書は、これを基本テクストとし、彼の第一哲学のロジックをできるだけわかりやすくお話ししようとするものです。
 本書は、六章からなっています。
 第1章「デカルトの生涯――一五九六年〜一六五○年」では、デカルトがどのような生涯を送ったかを概略的に見ておきます。
 人の思想を知ることとその生涯を知ることには直接的な関係はないと考えられるかもしれません。けれども、人の思想はその生涯の中で紡ぎ出されていくもので、また、人の思想はその思想の中だけで閉じた仕方であるものではありません。例えば、カントを知るには彼が言及しているデカルトやロックやヒュームを知る必要があるように、デカルトを知るには、デカルトが生きた時代を見ておく必要があります。また、その時代では当然の考え方が、当然なため説明なしに出てくるということはよくあることで、過去の偉業をよくよく理解するためには、その偉業の中で当然視されているものを復元しなければなりません。そのためにも、個人史を概略なりとも復元する作業は、その人の思想を理解する上で、欠かすことができません。
 第2章「『省察』を読む(Ⅰ)――第一省察〜第三省察」と第3章「『省察』を読む(Ⅱ)――第四省察〜第六省察」は、本書の核をなす二章です。標題のとおり、この二章では、デカルトの『第一哲学についての省察』における彼の思想を、順を追って、できるだけわかりやすく解説していきます。
 第2章では、すべてを疑うことから始まって、「我あり」が確認され、神の存在が証明されるところまで進みます。第3章では、そのあと、(私たちが日常物体とはそのようなものだと思っているものとは異なるものとしてではありますけれども)物体の存在が回復され、これまでの「誇張された懐疑」を全面的に停止するところまで話が及びます。
 ところで、デカルトの第一哲学(形而上学)を理解するためには、彼の自然科学(当時の言い方では「自然学」)の分野の考えを、できるだけ押さえておく必要があります。デカルトは、自然学の基礎が形而上学であるという仕方で、自然学と形而上学を明確に区別しようとするのですが、実は、彼の形而上学はいくつかの重要な点において、自然学をその支えとしています。
 そこで、第4章「形而上学を支える自然学――物体の本性と観念の論理」では、デカルトの自然学のいくつかの話題を取り上げて、その分野における彼の見解に触れていただき、第一哲学の議論の中で使われている自然学的論理をよりよく理解していただけるよう努めます。
 取り上げるテクストは、主として、一六四四年に出版された『哲学の原理』第二部と、遺稿として出版された『世界論』および『人間論』です。
 第5章「デカルトの「循環」?――「自然の光」だけを頼りとして」では、古くからデカルトの「循環」として論じられてきた問題を取り上げます。これは、『第一哲学についての省察』に付された二つの反論の中で提起された問題で、今日でもデカルトを論じる上でよく話題になります。この章では、提起された問題とそれに関わるデカルトの発言をできるだけ丁寧にたどり直すとともに、デカルトの論の進め方にはその問題の是非よりもはるかに興味深いものがあることを論じます。
 このようにして、デカルトの形而上学を理解するためにどうしても欠かすことのできないものをお話しした上で、第6章「主観主義の伝統と分析哲学の起点――デカルト哲学の射程」では、デカルト哲学が開いた主観主義の影響力についてお話ししたいと思います。
 私は、すべてを「原理」から引き出すべきだとするデカルトの学問観(これはしばしば「基礎づけ主義」と言われます)そのものには賛成ではありません。したがって、例えば私はフッサールを好むにもかかわらず、フッサールがデカルトの「基礎づけ主義」的学問観に倣おうとしたことを、よしとすることはできません。そうした立場にいるにもかかわらず、私がデカルトの重要性を強調しなければならないと思っているのは、先ほども申しましたように、西洋の学問の革命的刷新を図ろうとしたデカルトがどれだけの影響力をのちの西洋思想に与えたかを理解しなければ、西洋精神史は語れないと思っているからです。
 この第6章では、まず、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」がアウグスティヌスの発言と同じではないかという古くからの指摘を取り上げることから始めます。そして、デカルトがアウグスティヌスをなぞったわけではなく、そもそもアウグスティヌスとデカルトとでは目的が違うということを書簡等から明らかにしたあと、そのデカルトの目的についてお話しします。
 そして、第6章後半では、西洋の「主観主義」の原点となったデカルトの思想の、その革命性と射程の大きさについてお話しします。第4章と第5章で私がいくつかの問題点を指摘するにもかかわらず、第6章後半の主観主義の話によって、デカルトの第一哲学がどれほど重要なものであったか、加えて、分析哲学の思想的ルーツがどのような意味でデカルトにあったか等々をご理解いただければ、本書はその役割を果たしたことになります。
 本書の姉妹編である『カント入門講義』、『ロック入門講義』、それにバークリを扱った『観念論の教室』同様、本書は、ご覧のように、ですます調で書かれています。
 私が一人一人のみなさまにデカルトはこのような考えを持っていたんですよとお話しするとしたら、大学での講義と同じように、このような語り方をすることになるはずです。できるだけわかりやすくお話しするよう心がけますが、大学での講義同様、けっしてレベルを落とすものではありません。もしかしたら、いわゆる「専門書」以上に、レベルの高い話になっているかもしれません。
 精一杯努めますので、おつきあいのほど、どうぞよろしくお願いいたします。

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