日米野球でベーブ・ルースやルー・ゲーリッグらをきりきり舞いさせ、あわや敗北の寸前まで追い込んだ伝説の速球投手。沢村栄治の名を知る多くの人は、そうしたイメージかもしれない。
巨人軍、タイガースなど七球団が加盟した日本職業野球連盟は、昭和一一年二月に旗揚げした。それは、まさに若手将校による二・二六事件の二〇日ほど前のことであった。この事件を起点に、日本は軍国主義への道をひた走ることになるが、その後の職業野球の運命を暗示しているように見えた。
日米野球の終了後、巨人軍が発足すると、沢村は職業野球の世界に身を投じる。そして、洲崎球場で行われたリーグ初の優勝決定戦では、三連投による見事な活躍をみせ、巨人軍を優勝へと導く。まさに沢村の絶頂のときといえた。
そうした栄光もつかの間、沢村、そして野球連盟を待ち受けていたのは、翌年にはじまった日中戦争である。勃発してわずか一カ月もたたずに職業野球選手が戦死したという知らせが入ってきた。それは、徴兵検査を間近にした沢村にとって、死への現実を目の当たりにした瞬間でもあった。
次々と選手たちが戦場へ駆り出されるなか、沢村も検査に合格し、入隊すると大陸へと送られた。そこで待ち受けていたものは、生きるか死ぬかの壮絶な戦場であった。もはや野球のことなど頭になく、沢村は兵士となっていく。誰もが我を失う戦場で、彼も手榴弾(しゅりゅうだん) を投げ込み、銃を撃ちまくり、鬼と化していった。
手に傷を負い、帰還した沢村がリーグ戦へ復帰したのは、二年もの月日がたってのことである。体重は増え、身体も思うように動かなかった。試合へ臨んだものの、その投球はもはや以前の彼ではなかった。
昭和一六年、真珠湾攻撃により太平洋戦争がはじまった。敵国競技である職業野球の存続が危ぶまれるなか、突然、野球連盟は陸軍から呼び出しをうけた。担当する大尉は、最後まで戦う姿勢を見せるべきだとして、引き分けの禁止やX勝ちでも九回の裏まで試合をするようにと強いた。
むちゃな要求に職業野球が潰されるのではと危機感をつのらせた鈴木龍二、赤嶺昌志らの野球連盟の理事たちは、ふと頭をめぐらせた。検閲の対象となったのであれば、軍は我々を潰そうとしているのではなく、むしろ国民に軍の意向を宣伝する媒体として利用しようとしているのではないか。だとすればここは、軍に協力姿勢を見せながら、こちらが利用することが得策である。こうして理事たちによる偽装工作が開始された。
選手たちに軍服を着せて手榴弾投げの余興を行う策は、軍の目をくらまし職業野球の存続へとつなげたのだった。
だが、戦局が悪化していくなかで陸軍はさらなる難題を課した。それは、ストライクやボールといった審判の号令から球場内の掲示板までの野球用語を日本語化せよというものであった。これに対して理事たちは、ストライクを「ヨシ一本」と日本語へ変えるなど順応する態度を見せる一方、次なる軍の命令が出る前に、慰問試合、銃剣術の余興など、隠れ蓑となる策を次々と講じていく。
そこへきて、またも沢村が召集された。
本書は、これまでのヒーロー像とは一味違う、人間沢村栄治を描いている。そして、戦時下、軍から抑圧されたといわれてきた職業野球連盟が、逆に軍を欺くことでおのれの存続をかけたという真実の物語である。
戦争に翻弄され続けた職業野球選手たちに、せめて本書のなかではおもいっきりプレーさせてあげたい。そして、軍と戦った野球連盟の男たちを知ってほしい、そうした思いで書いた作品である。現在のプロ野球の礎となる戦時下の職業野球について、新たな発見をしていただければ幸いである。