最近の人たちは本を読まないとか、新聞を読まないなどと言われています。しかし「活字」という点でいうと、今の私たちは、かつてないほど活字にふれている時代に身を置いているのではないかと思います。
いいか悪いかは別として、今は誰もが、いつでもどこでもスマホを見ています。ネットを検索したり、SNSに時間をさいたり、PCに向かっている時間も信じられないほど増えています。
毎日、ぼうだいな活字に浸っているので、ひとつひとつ丁寧に読んでいたのでは時間がいくらあっても足りません。たくさんの情報量を処理するには、活字を見た瞬間に理解できるくらいのスピード感が求められている、と言えましょう。
たとえばインターネットでぱっと写し出された画面を、さっと読み取ることができれば、次々にスクロールしていって全体が理解できるでしょう。あるいは会議で配られた資料にささっと目を通して、全体像をつかめる。そういう力が求められていると思うのです。
私はそれを「超速読力」と名付けました。「超速読力」とは、見た瞬間に理解できるという新しい力です。たとえば、この本の見開き二ページを見たら、一五秒くらいですっとわかるのが「超速読力」です。
A4の資料一枚も、およそ一五秒で意味を取ります。慣れた分野のものなら、一枚あたり一〇秒、五秒と短縮していきます。一枚五秒ですと、超速読感が出ます。
小説などを楽しむ読書のために使う力ではなく、資料・ネットを読むときや、新書・実用書など情報を得るため、または古典としておさえておきたい読書のときに使う力です。
さらに、読んだものに対してコメントが言える。このコメントが言える、という点が「超速読力」のポイントになります。ただ速く読めればいい、というのではありません。
本書では現代社会に求められている「超速読力」について、「超速読」のやり方やトレーニング法、具体的な実践まで細かく記しています。小説や古典を「超速読」する方法も書き記しました。いずれも、私が長年かけて実践してきた方法です。
この本を一冊読み終わるころには、間違いなくみなさんの読む速度はアップしているはずです。ぜひこの本を、みなさんの人生に役立たせていただければ幸いです。
†本書を読む前に
「超速読」というと、猛スピードで活字を目で追っていくことだと誤解する人がいますが、そうではありません。中身を理解して、コメントを言う。「読む行為」と「コメントを言う」行為をセットにする。それが「超速読力」の基本になります。
「超速読力」をどういうところで活用するか、具体例を示しましょう。
先日、私は佐賀県の偉人について語るという講演を頼まれました。佐賀県の資料館の学芸員の方も来るような専門的な講演でした。佐賀出身でも何でもない私になぜ? という疑問はさておいて、佐賀県について詳しい方々を相手に語るという、ハードルの高い講演を引き受けてしまったわけです。
もちろん私も、佐賀についてまったくノー知識だったわけではありません。以前、幕末に関する本を書いたことがあって、佐賀出身の七賢人のことは知っていました。しかしさすがに詳しく知らない偉人もいます︒
そこで即座に関連する書籍を手に入れて、ひと晩のうちに一〇冊読破してしまいました︒
これぞ「超速読」です。さすがに、みなさんはひと晩で一〇冊読まなければならない事態に追い込まれることは少ないかもしれませんが、現代は大量の情報を短い時間でこなして報告をしなければいけない機会はたくさんあります。
かつて日本の寺子屋で行われていたように、素読と復唱をくり返し、身体に深くしみ込むように身につける読み方をしていては間に合いません。私は『声に出して読みたい日本語』(草思社文庫)という本を出しているくらいですから、素読をおおいに推奨しています。
しかし今は、それだけでは情報処理能力という点で足りなくなっているのです。大量の情報をざーっと流し込んで、それに対してコメントが言える能力、すなわち「超速読力」という新しい力が必要です。
この本では現代社会に求められる「超速読力」をいかにして身につけるか、「超速読力」の鍛え方について具体的に述べていきます。
しかしぱっと見ただけで内容を理解して、コメントまで言える能力が簡単に身につくものでしょうか。私が「超速読力」の話をしたとき、「それは超能力ですか?」と真面目な顔で質問した人がいました。
「パッと見ただけで中身が理解できるんなら、こんなに苦労しないよ。ふつうの人が身につけるのは無理なんじゃないの」というわけです。
でも実は「超速読力」は誰でも簡単にすぐ身について、上達も早いものです。おそらく私が「超速読塾」をやらせていただけたら、みなさんは一時間の受講だけで、その力が身につくだろうと思います。その根拠のひとつは、
① 私たちが漢字とかな文字が交ざった文化を持っているから
です。これが英語ですと、すべてアルファベットで書かれていて、アルファベットは記号ですから、意味に変換するのに少し時間がかかります。
でも漢字はそれ自体に意味を持つ象形文字もたくさんありますし、漢字を形として覚えているので、瞬時に意味として理解しやすいのです。
たとえば「幸」でしたら、漢字自体が「幸福」という顔をしてそこに並んでいます。私たちは「不幸」という漢字を見て、ニコニコすることはないでしょう。「幸」には幸福の色が、「不幸」には不幸の色が付いている感じがします。
同様に「信」と「疑」だったら、見ただけで受け取る感情が違います。「みる」という漢字でも、「看る」だったら看護師さんが丁寧に看る感じ、「診る」だったら、お医者さんが診察する感じがします。
漢字の一文字一文字について、その主張を感情的に色付けして受け取っているのです。
さらに漢字が熟語になると、意味はもっと鮮明になります。主張を持っていると言ってもいいでしょう。
「隠匿」という熟語を見れば、「何か隠しているな!」というイメージがわきますし、「解放する」とあれば、解き放たれた感じがします。また囚人を「解放」するのと、公園を「開放」するのとでは受け取るイメージが違います。
これがかな文字だけだったら、「しゅうじんをかいほうする」と「こうえんをかいほうする」という表記になり、意味を理解するには少し時間がかかるでしょう。
私たちは「漢字かな交じり文」という独特の文化を持っているので、パッと見ただけで、その意味をつかむことができます。そういう大きなアドバンテージを持っているのです。
外国人が見たら、漢字はただの記号か図形にしか見えませんが、私たちには意味を持つものとして目に飛び込んできます。このアドバンテージを活かさない手はありません。
次に「超速読力」がすぐ身について、上達が早いというふたつ目の根拠、それは、
② 私たちはその能力があるのに、使ったことがないから
です。私たちは学校教育の中で、あまり「超速読」の要求をされたことがありません。ましてやその訓練も受けていません。でも本当は試験のとき、要求されていたのです。
制限時間内に試験を終えなければいけないとき、長文問題が最後に残ってしまい、点数配分が大きいのにほとんど読まずに放り投げた、という人もいるでしょう。あのとき、ちゃんと「超速読力」を鍛えていれば、長文問題まで解けたのです。
意識して使ったことがない能力は伸びません。でも逆に言えば、使ったことがないからこそ、練習すれば急速に伸びます。自転車は練習すれば誰でも乗れるようになります。個人の能力は関係ありません。でも、練習したことがなくて乗れない人から見ると、「すごい超能力だな!」ということになります。
「超速読力」は今まで私たちが鍛えたことがない能力ですから、練習すれば誰でも伸びるというありがたい能力です。これを鍛えない理由が私にはわかりません。本書にはそのやり方や鍛え方が具体的に記してあります。
本書を読み終わるころには、みなさんは間違いなく「超速読力」の達人になっていることでしょう。なぜなら、みなさんは今だかつて一度もその能力を本格的に鍛えたことがないのですから。