単行本

「定義」にふれる幸せ

12月に刊行された齋藤孝先生の『定義』。高校生から「定義」することに憧れていた、という著者の思いがつまった一冊です。「定義」にふれることで、今まで見えなかったものが見えてくるはず。こんな風に読んでみたらどうでしょうという著者からの提案もあります。PR誌『ちくま』から転載します。
  私は、すでに高校生時代から定義に憧れていました。定義するという行為は、神の業だと感じていました。例えば、数学では、定理は定義によって導かれます。定義をするのはすごいこと、いつか自分も定義をしてみたいと思っていました。そして、この度念願かなって、『定義』という本を出すことができました。
 いろいろな偉大な知性の人が、「○○は××である」と自分なりの定義をした、その言葉を集めて私が解説したものです。全部で二八六個。相当な数です。
 数学の定義などと違うのは、例えば「人間」という言葉に対して、いくつもの定義が考えられます。数学では、例えば「円は定点から等距離にある点の軌跡である」という定義になります。
 これは普遍的ですが、「人間というのは、△△である」というのは様々ありますね。「ホモ・ルーデンス」は遊ぶ人、すなわち、遊ぶから人なのであるということです。「ホモ・サピエンス」は、知の人ということになります。
 また、ドストエフスキーの『死の家の記録』に「人間とは何にでもなれる動物である」という文章があります。これは洞察力の集約ですね。何かを見た時に、「これが本質なんだよ」とぱっと見せてくれる。定義は究極の凝縮力、究極の洞察力、そして要約力なのです。
 定義するという行為に、私はリスペクトを覚えます。それは覚悟がいることです。「○○は××である」と言った時に、「それは違うでしょう」と言う人もいる。でも、その逆風に対して二本の足で立っていられる覚悟、強さというものが、定義するという行為にはあります。
 ニーチェに「評価とは、創造である」という定義があります。何を評価するかによって、現実が変わってきます。授業においても、いい意見を評価するのではなく、とにかく発表すればいいのだと言うと、発表者がどんどん増えていく。バスケットボールのスリーポイントシュートもそうです。遠くから投げ入れた球を二点ではなくて三点に評価すると決めたら、スリーポイントシューターというものが各チームに生まれ、それが勝敗の鍵を握ることに今はなっています。
 そう考えると、評価するのはもはやそれ自体が創造的な行為であるとわかります。定義は、物事を照らしてくれる照明、光みたいなもので、見えないものが見えてきます。
 この『定義』で私が一番希望するのは、パラパラッとめくって見るうちに、「そういう見方があるならば、自分にも経験がある」という記憶がよみがえることです。
 例えば、「人間は中途半端な死体として生まれてきて、一生かかって完全な死体になるんだ」と寺山修司が言ったならば、「あー、そういえばうちのおばあさんは亡くなった時に見事だったな、完全な人生を終えたな」という記憶がよみがえってくるかもしれない。
 この本は、人類の最高の知性たちが最大の緊張と覚悟を持って提示した、ものの見方なのです。世界というものを究極的に要約すればこうなる。一ページめくるごとにその覚悟を感じていただけると、この世界に生まれ落ちて、このような洞察力に触れて本当に幸せなことだなと思います。
 最後にみなさん、「恐怖」を定義してみてください。
 アガサ・クリスティーは「恐怖とは、不完全な知識である」と定義しました。