ちくま新書

大切なことは小さな声でしか語ることができない

様々なところで限界を迎えている日本。再開発、五輪や万博、経済成長……右肩下がり時代にもかかわらず、威勢の良い話に惑わされてばかりの世の中に、著者は強く警鐘を鳴らします。これまでのシステムはもうたくさん。半径三百メートルで生きていくことを決めた市井の思想家がこれからの生き方を提示する一冊、ちくま新書『路地裏で考える』のまえがきを公開いたします。

 二〇一八年の正月を挟んで、『つげ義春コレクション』(ちくま文庫)を読み続けていた。
 以前は、よくわからなかったこの寡黙な作家の精神の在りどころが、心に染みた。
 作品集の中で、唯一エッセイをまとめた巻で、つげはカメラ商になろうと中古カメラを集めたり、古物商の免許を取得したり、川べりに転がっている石を販売する商売(水石販売)に手を出したりと、収入の不安定な漫画家から足を洗おうと悪戦苦闘した様子を綴っている。
 しかし、どう贔屓目に見積もっても、中古カメラ商や水石販売が漫画家よりも安定した職業には思えない。堅気の商売と言うことにも躊躇がある。それでも、つげはまるで初心な市井人のごとく、堅気の商売に憧れ、これらの商売を半ば本気で、堅気の商売だと思っていたらしい。
 そんなことがあるのだろうか。どこか、韜晦趣味のようなものがあるのではないかと、疑ってもみたが、それだけでは、生活を賭けてまで、これらの商売に没入していくことに対する説明がつかない。生きることにあまりに不器用にも見えて、読んでいるうちに、哀れをもよおすこともあった。
 かつてのわたしなら、おそらくつげは世捨て人を衒う変人の一種であると、片付けていたかもしれない。しかし、この歳になってみると、わたしにも、つげの気持ちがわかるようになった。そこにあるのは、趣味でもなければ、変人志向といったケレンでもない。他に適当な言葉が思い浮かばないのだが、これは思想というべきものではないかと思う。それも、かなり堅固な意志に貫かれた思想である。
 どういう思想なのか。
 たとえば、求職をしているときに、人は誰でも何かしらつてを頼ったり、自分をどこか良く見せようとしたり、できれば安定的で見栄えの良い職についてみたいと思うだろう。
 あるいは、病気になれば、何か良い紹介者を探して、少しでも良い条件で良い医者に診てもらいたいと思うだろう。また、旅先であれば、快適な睡眠がとれて、うまい食事にありつけて、なおかつコストパフォーマンスの良い旅館に泊まりたいと思うだろう。
 つげは、こういったことを全く顧慮しないように見える。いや、むしろ利便や効率を求めることを自ら忌避し、その日一日を凌ぐだけの金を稼ぐための仕事を探している。旅先では、一番貧相な旅館を好んで選ぶ。職業なら一番儲かりそうもない職種を選ぶ。町なら虚飾の都会より末枯れた場末を好む。列があれば最後尾に並ぶ。お金儲けや、立身出世を求めてはいるが、そうした自分の欲望をいつもどこかで恥じてもいる。
 これは、何を意味しているのだろう。そして、このような生き方をどこで、身につけてきたのだろう。いや、身につけるというような言い方からして、つげ義春的ではない。
 つげにとって、このような生き方、つまりは自分の欲望に顔を背けて生きるということなのだが、それは半ばは性格から、半ばは生活上の体験から醸成された思想なのではないかと思う。
「何事においてもチャンスに乗ずるのは下卑たことだ」と太宰治は言ったが、つげもまた何かに乗じて生きることを恥ずかしいことだとどこかで思っている。何かに寄りかかって生きようとは思わない。そして、人生に対しては、寡黙であるべきだ。だからと言って、山ごもりをすることもできない。密航を試みたり、人知れぬ町に隠棲したりしようとしたが、どれもうまくいかない。自分の欲得が絡むと世界は歪んでしまう。最も内向的であり、弱くもある人間である自分はいつも路地裏に逼塞している。そうしたところからしか見えない世界の「深淵」を、いつも独りで覗き込んでいる。それは、楽しいことか。辛いことか。わたしにはよくわからない。ただ、それ以外の選択肢があったとしても、それは自分の分ではないし、路地裏の隘路を行く以外のことに、とりたてて意味を見いだすこともできない。
 大晦日の晩に、炬燵で蜜柑を食べながら、つげの作品を読んでいると、知らず知らずのうちに自分もまた見知らぬ温泉地の薄暗い湯に浸かっているような気持ちになる。世界はめまぐるしく変化するが、この光景だけはいつも不変である。
 おそらくは、わたしにもつげ義春と同じような嗜好性があるのだろう。ただ、誰も、つげ義春ほど徹底できないだけである。
 いつの頃からか、わたしの夢の中に、つげ義春が描き出した温泉宿に自分が迷い込んでしまう場面が現れるようになった。そのモノクロームの夢の中で、わたしは何かを呟いたり、囁いたりしているのだけれど、うまく声にできない。
 本書は、そのような人生の最後尾のような場末から、現代の生活や政治や娯楽を眺めるなかで見えてきたものについて綴った文章を集めている。路地裏の散歩者が、夢の中でうまく声にできなかったことのいくつかは、本書の中で言葉として定着できているかもしれない。
 夢の場面と同様に、それらの声は小さく、呟きかけている相手の顔も影のように表情がない。それでも、大切なことはいつも小さな声でしか語ることができない。そして、小さな声は、それを聞き取ろうとするものにしか聞こえてこない。

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