読み心地が好くて笑える短いエッセイがたくさん収録されているからといって、いっぺんにどんどん読み進めてはならない書物がある。あはは、可笑しいとベッドに寝ころびページをめくり続けるうちに日は暮れる。夜は更け、朝が来たことにも気がつかない。なけなしの勤労性をすべて奪われてしまうから、一日三篇までなど、用量の制限をすべきかもしれない。岸本佐知子『ひみつのしつもん』は間違いなくそうした一冊である。
書評を書く者の責務として、セイレーンの歌声を、命を賭して聴いたオデュッセウスのごとき覚悟で本書を読んだが、見事にやられた。メモも取らず、にまにまと笑っていた。ただそれでは仕事にならないので、無粋ながら、作品を三つにタイプ分けしてみよう。
一つめは、日常のありふれた光景や記憶が、著者の目を通すととんでもない妄想の世界に接続していく、というものである。たとえば「誘われて、歌舞伎を観にいった」との冒頭が、王道的な身辺雑記かなと思わせる「カブキ」という一篇。劇場へ赴いたところ、数列前に若い白人男性が二人座っているのを認める。翻訳の仕事も多い著者は、吉原の花魁を田舎商人が見初める物語において、〈「身請け」は英語でどう言うのだろう〉とふと疑問を持つ。すると彼らの理解度ばかりが気になりはじめ、脳内でボブとサムと名付けた彼らは掛け合いを始めるのだ。〈「おい見ろボブ、あれは靴なのか箱なのか?」〉。以降は自ら「ボブサム目線」で観劇する羽目に。〈困るのは、歌舞伎が終わっても何か月も経つのにボブサムがまだ帰ってくれないことだ〉。
著者の憑依の自在さは、物干し竿にまで及ぶ(「洗濯日和」)。竿が落下し、筒の中からドロドロの液体が流れ出るアクシデントに遭遇したとき、「液体の私」の意識を妄想し〈わっ何ここ。わっ何まぶしいんですけど何これ〉と表現する人が果たしているだろうか。現にいるのである。
二つめは、いわゆる「自虐ネタ」を、自慢にも自己憐憫にも転ばず、美しく笑いへと昇華させるものである。運動習慣がないこと、出不精であることは繰り返し語られるが、「哀しみのブレーメン」ではそんな著者が〈「明らかに自分よりダメだ」〉と判断できるものを三つ、家の中で探す。筆頭は「ニンニク絞り器」であるらしい。なんと意表を突かれるチョイス。あとの二つは本書で確認を。表題作も、物忘れのはげしさを披歴するかのようでいて、人生の哀しみとしか言いようのない逸話になっている。〈いったい誰だったのか私の親友は〉。
そして三つめ。岸本佐知子という書き手は本質的に小説家なのだと感じさせるいくつもの作品がある。妄想力と憑依力、そこに語りのうまさが合わさり、得も言われぬ小品が出現するのだ。〈地下鉄のトンネル内で一人の老人が捕まった〉というニュースに接した著者は、トンネルに三十年間住んだと噂される「地下鉄仙人」の暮らしぶりを想像するうち、百葉箱やスーパーカミオカンデなど極端な場所に住む自分を夢想し、さらに〈空から落ちてくる雨粒〉からの眺望や漢字の「鼎」の間取りに心ひかれたりする(「エクストリーム物件」)。展開の予想のつかなさ、筆の運びの自在さは、内田百閒も斯くあらんというほどだ。あるいは、夜中にテレビ中継で見た花火大会で、スイカやら犬やらの形が次々と打ち上がるのは、どうやら人々の大事な記憶を花火化しているらしく、さらに画面を凝視すれば、台に寝た人々の額が発射台になっている。〈私にも、打ち上げたい思い出があった。/気づくと、いつの間にか台の上に横になっていた〉。この「花火大会」からただよう詩情は尋常ではない。のんきに笑っている読者に、因果律と時間感覚を手離した幻想文学の深淵を覗かせるものとなる。
本書にはこうしたものが五十二篇も入っている。取り扱いに関し、本稿は注意喚起に役立ったろうか。一日三篇まで。どうせその用法用量が守られないことは、読んだ私がいちばんよく知っている。
PR誌「ちくま」の名物連載「ネにもつタイプ」は18年目を迎えていよいよ快調! 三冊目の単行本となる『ひみつのしつもん』を江南亜美子さんに紹介していただきました。PR誌「ちくま」11月号より転載します。