ちくま文庫

ルビコンを渡り小説的想像力の源へ

現代アメリカ文学を代表するスティーヴ・エリクソンの傑作が25年の時を経て、ちくま文庫として蘇る。先日来日したエリクソンにインタビューをしたばかりの江南亜美子氏による書評をPR誌『ちくま』12月号より転載します。

 初版の一九九二年から二四年を経て、このたびスティーヴ・エリクソンの『ルビコン・ビーチ』が文庫化されることは、純粋に喜ばしい。四半世紀という年月は決して短くはなく(本国での出版から数えれば三〇年になる)、その間アメリカの文学シーンの潮流はいくらか変遷してきたが、いま本書を読んでも古びていると感じるどころか、濃厚なイメージの炸裂に改めて驚かされ、新鮮さすら覚える。人種の問題や、愛の非対称性や、オルタナティヴなアメリカの像はすでにこの作品で主題化されており、この後に書かれるエリクソンの偉大な作品群を知る者から見れば、長編第二作である本書に彼のシグネチャーがしっかりと刻印されている点に、驚きを禁じ得ない。もちろん本書で初めてエリクソンに触れる読者には、このエッセンスの凝縮が刺激となるだろう。
 物語を大まかに紹介すれば、三部立ての第一部はケールの語りではじまる。彼は刑務所から出たばかり。爆発音の響き渡る荒廃したロスアンジェルスのダウンタウンをうろつくうち、黒髪で褐色の謎めいた女の存在に行きあたる。繰り返される殺人事件のフラッシュバック。錯乱一歩手前の、記憶の混交。その裡に現われる彼女は、いったい何者か。深まる謎は第二部へと持ちこされる。
 女はアメリカ名をキャサリンという。元は「野生の女」だったが、船乗りが賭けの報酬としてなかば誘拐するように連れ出し、南米から川を北上、各地を経巡ってロスアンジェルスへと辿りついたのだった。彼女はハリウッドの脚本家のもとに身を寄せる。そこで花開く美貌は界隈をざわつかせるが、彼女が世俗に飼い慣らされることはない。映画的なあまりに映画的な出来事により、彼女は世に放たれる。
 エリクソン作品には、時空の歪む建物が異界をつなぐ装置としてしばしば登場し、たとえば『真夜中に海がやってきた』では新宿歌舞伎町の入口から築地に出られるホテルが描かれるのだが、本作のアンバサダーホテルもそうしたものだろう。燃え上がる炎に包まれる建物の、人知では制御できない破滅的で美しいイメージは、内面を語ることのないキャサリンという存在にも重なる。
 そして第三部。時代はさかのぼって二〇世紀半ば。レイクという男が年老いたケールに、あることを問われる。きみが生まれたのは「アメリカ1か、アメリカ2か?」と。「アメリカ1」とは、第一部においてケールの罪状とも関係し、多くの人には体験できない「もうひとつのアメリカ」である。
〈私はどんなだか知っているよ。そこにいたことがある。そこにいたことがあるんだ〉(三三九―三四〇ページ)。
 第三部の後半は、「私」という一人称と「レイク」の三人称の語りが頻繁にスイッチングされ、レイクは語り手となり、またケールともなって、ついには時空を超えて、キャサリンと出会い直す。語りの位相できちんと隔てられていた「他者」に、自己が次第に包摂され、他者の記憶を生きてしまうような異様な感覚を、読者は味わうことになる。
 褐色の/ジャングル出身で/言葉を持たない/女であるキャサリンは、いわば何重もの負性の象徴でもある。三部を通して、彼女を奴隷のように所有することを男たちは望みつつ、その不可能性もあらかじめ織り込みずみであるかのようだ。ここでは所有と罪悪感、侵略と贖罪という(わかりやすい)物語構造を超えた、アメリカという国自体にまつわる「無意識の欲望」のようなものが、ずるりと引き出されてくるのである。
 小説的想像力の毒、という意味で、エリクソンほど読者をその中毒症状に陥れる作家はあまりいない。本書でエリクソン体験をした読者には、初期代表作の『Xのアーチ』や日本における最新邦訳作『ゼロヴィル』をあわせてお薦めしたい。エリクソンを知るという、あとに引き返せないルビコンを、私たちはすでに渡ってしまったのだから。本作では、(当時弱冠三〇歳の)島田雅彦の、エリクソンに共振して作り上げられた訳文のヴァイブスが楽しめる点も、付け加えておきたい。