ある小説がいつ読まれるべきかに正答はない(いつだって読まれればいい)が、深緑野分『ベルリンは晴れているか』がこの三月に文庫化されることは、すばらしく時宜を得ている。軍国主義の大国ロシアによる軍事侵攻という暴挙に、怒りを隠しきれないウクライナの国連大使は国連総会の演説で、「いまは第二次世界大戦の始まりと似ている」と声を震わせ、「もし自殺したいのなら、核兵器を使用する必要はない。一九四五年五月にあの男がベルリンの地下壕でしたのと同じことをすればいい」とプーチン大統領をヒトラーになぞらえたが、本書は、私たちがいま想像しようとしておそらく想像しきれないこと――地政学的に大国のはざまにあり、砲弾が雨のように降り、真実か虚偽かわからぬ情報が飛びかい、荒廃した街にわが身を置くその戦時の恐怖と緊張――を、まざまざと感じさせてくれる。小説というフィクションが可能にする共感の力で、私たちは、その痛みの一端を知るだろう。
物語の舞台は一九四五年七月、敗戦したナチス・ドイツにかわり、米ソ英仏の連合四カ国占領統治下にあるベルリンだ。身につけた英語が役立ちアメリカ軍の食堂で働く十七歳のドイツ人少女アウグステは、ある日、ソ連軍人に呼び出される。身寄りのない自分にとって最後の恩人というべきクリストフがだれかに毒殺されたというのだ。殺害の嫌疑は晴れたものの、彼の甥を探し出すよう任じられる。連れ立つのは泥棒で元俳優のカフカという男だ。
ストーリーの主旋律となる、老音楽家の殺人事件の真相究明はこうしてロードノベルの要素を帯びる。元動物園の女性飼育員から情報をもらい(ワニのスープもいただき)、孤児の窃盗団と出あい、彼らのボスである少女の魔の手からすんでのところで逃げおおせる。盗品が活用された少年らお手製の木炭ガス自動車でベルリン市内を疾走するさまは、まさに冒険だ。出会う人すべてが、敵か味方かと簡単には判別できず、アウグステの「善きドイツ人」としての直感と倫理観が試されていく。
そこに「幕間」といって挟み込まれるのが、アウグステのこれまでの来し方だ。ロシア革命にかつては憧れた両親のもとに一九二八年に生まれた彼女は、どんな幼少期と学生生活を過ごしたのか。それはまさにナチス・ドイツ台頭の歴史と重なる。両親が失意のなか死に、妹分のポーランド少女も失い、自らも凌辱された少女アウグステ。
何よりリアルなのは、時局に応じた人々の心理の変化が、克明に捉えられている点だ。恐怖はその裏返しの威勢のよさを生み、極度の不安は隣人への裏切りに舵を切らせる。アウグステが住んだ集合住宅には民族も思想も異なる人々がいたが、ナチスの優生思想の毒にやられ障害のある姉を施設に送った弟もいれば、アウグステに英語の辞書をくれた裕福なユダヤ人少女の一家はみるみる爪はじきにされ、最後は収容所へ。だが志を同じくする者の互助も働き、彼女は生き延びた。こうして少女は鋼の精神を持つようになっていく。地獄は彼女に真に道徳的な自律の力を与えたのだ。
カフカという男の意外な正体も含め、物語の終盤、毒殺事件はその真相が解明されていくが、解像度高く描き出されるのは、戦争の醜さであると同時に、戦時下に露呈されていく人間の愚かしさであり、人と人のあいだに働く力学のあやうさであり、そしてその反対の、人間の崇高さでもある。十七歳ながら「まるで老人のよう」な瞳を持つアウグステを、強いだけではない、悲しみを十分に知る人間的で血の通うアンビバレンツな人物として造形せしめたところに、本書の誠実さはあらわれる。
政局はときに人々の暮らしに悲劇をもたらす。人は無力だが政治もまた、人の行ないだ。一九四〇年代ベルリンの混乱期を描いた本書に、現在の私たちが照射されている。
第二次大戦直後のドイツを舞台に迫真の臨場感で描かれた歴史ミステリの傑作・深緑野分『ベルリンは晴れているか』を文庫版の刊行に際して、いま読むことの意義を書評家/ライターの江南亜美子さんに読み解いていただきました。(PR誌「ちくま」4月号より転載)