「私たちを食の快楽へと誘う哲学は、香りに対する意識ではないでしょうか」(一一頁)。
ん〜難しい、深い……、だけどそう思う!
この本を読み進めていくと、どんどん食欲が湧いてくる。まるでその魚を食べている
ような錯覚すらおき、五感の刺激は半端ではありません。日本人が大好きな魚貝類につ
いての究極のバイブル、と言っても過言ではないでしょう。知らない知識がどんどん体
のなかに注入され、今すぐ寿司屋に駆け込み、魚とワインのマリアージュを試したくな
る衝動に駆られます。
解説のお話をいただいたときは、なんとなく、魚に香りぃ〜? って何だ?! と思っ
たけれど、この本には、魚貝一つ一つの香りと味の成り立ちや、著者独自の香りや味の
表現が事細かに記されています。ワインも同様、一つ一つ土壌や気候により成り立ちが
違い、香りや味も様々です。
料理とワインの相性(マリアージュ)の世界に勤しんできた僕が、魚とワインの相性
について猛烈な興味と好奇心に駆られてしまったのは言うまでもありません。
「食」とは関係なく、何気ない日常の生活の中にも香りはある。無意識のうちに感じて
いる香り、朝起きた部屋の香り、窓を開けた外の香り、季節の変わり目に感じる空気や
風の香り、出勤した時の職場の仕込みの香り、実家に帰った時の海の潮騒の香り……。
ワインの香りに関しては、僕独自の考えがあって、教科書に載っている専門的な表現
ではありませんが、例えば、白ワインで言うと、
・ソーヴィニョンブラン種 爽やかなイケメンの香り
・シュナンブラン種 ハチミツレモンの香り
・リースリング種 甘酸っぱい青春の香り
・シャルドネ種 リッチで樽ロマンの香り(深い味わいでロマンを感じるという意味)
赤ワインだと、
・軽いピノノワール種 キュートでチャーミングな香り
・やや高級なピノノワール種 ハッとする初恋の香り
・カベルネフラン種 野生的でツンデレな香り
・カベルネソーヴィニョン種 優等生な香り
などなど。お手本のような味や香りの表現というのではなく、お客様に楽しんでもらう
為に欠かせない、僕なりの表現です(笑)。
そして独自のワインと料理のマリアージュもあります。ザックリ挙げますと、
・ マグロの刺身は、シラー種主体の軽めな赤ワイン。鉄分を含んだマグロとワサビ醤
油に合う。
・ 蟹料理には、南仏のヴィオニエ種。クチナシの花のような香りと蟹の香りがなぜか
合う。
・ 餃子には、ボジョレーのガメイ種。程よい渋味とフレッシュな果実の甘さが餃子の
あんと合います!
・ 秋刀魚の塩焼きは、ピノノワール種。特にシャサーニュモンラシェの赤。今は、白
ワインが有名だけど、大昔はたくさん赤ぶどうが植わっていた!
・ 焼き鶏の塩焼きだったら、薄甘口シュナンブラン種のヴーヴレイ。鶏から出る肉の
脂と塩味の塩梅が、薄甘口のヴーヴレイと一緒に飲むともう堪らなく、悶絶するほ
ど美味い!
と、書き進めていくうちに、生まれて初めて僕が直接魚と海にふれた体験を思い出して
しまいました。
子供の頃、辻堂海岸の近くに住んでいた僕は、父親に連れられてよく投げ釣りをしに
出かけていました。投げ竿にジェット天秤なる(飛距離が出る)オモリをつけて、餌は
近所の釣り具店で購入したアオイソメで、釣れる魚はイシモチ、ふぐ、ボラ、たまにキ
スなどでした。投網を買ってもらって小さな蟹を獲ったこともありました。
釣った記憶はあるのですが、なぜか食べた記憶がまったくなく、ボラは臭いという印
象だけが今でものこっています。酒の肴にピッタリのカラスミがボラの卵巣とは、恥ず
かしながらお酒が飲める年齢になるまで知りませんでした。
そんなある日、近所の釣り好きな友達から、江ノ島の堤防釣りに一緒に行かないかと
いう誘いがあって、物凄く嬉しくて楽しみだったのを覚えています。しかしいざ釣り糸
を垂れるもなかなか釣れなくて、見兼ねたとなりで釣りをしていたおじさんが、僕達に
ボラを一匹くれました。あの臭い魚かぁ〜、ともらったにも拘わらず、心の中で文句を
言っていました。
そのボラを持参した小さなクーラーボックスに入れるため、堤防わきのテトラポット
に足を掛けてクーラーボックスに海水を入れようとした瞬間、つるっと足が滑って海に
落ち、濡れた洋服の重さで身体が沈み、溺れて両手でバシャバシャともがきながら、子
供のか細い情けない声で「助けてぇ〜」と叫んでいました。となりのボラをくれたおじ
さんから、「つかまれぇ〜」と差し出された竿に必死につかまり、なんとか救出しても
らいました。
帰り道の一匹も釣れなかった悔しさと、溺れて死にそうになったカッコ悪さと、服が
ビチョビチョで磯臭くなった自分を思い出させる、ボラの香り。魚の香りを生まれて初
めて体験しました。
大人になってから伊豆宇佐美で船釣りに誘われた事があり、これまた久しぶりの釣り
に嬉しくて楽しみでワクワクしていたのですが、出港直後に猛烈な船酔いになってしま
い、自分でコマセをまいてしまいました。
コマセの甲斐あって(笑)、カワハギ狙いのところがなぜか魚ではなく、直径三〇セ
ンチくらいの大きな渡蟹が釣れました。その日釣れたのは後にも先にもその渡蟹一匹だ
け。その晩、地元のお寿司屋さんに持ち込ませてもらい、味噌汁を作ってもらいました。
渡蟹のミソが、味噌汁に溶け込み、濃いダシの香りと甘みがファーッと鼻を突き抜け、
コマセた事も忘れさせる、すこぶる美味しい蟹汁でした。大変な思いをして釣った一匹
の渡蟹と一体化した味噌汁の香りと味は、一生忘れません。なんだかそういう昔の記憶
や子供の頃の体験が蘇る本でもあります。
東京に住んでいると全国各地から旬の食材や魚貝が集まってくるのですが、年に何度
か日本各地の産地を訪れて、ご当地グルメを食べています。ただ単に旅行が好き(笑)。
毎年初夏になると、北海道積丹半島の雲丹を食べに出かけています。北海道屈指のワ
イン銘醸地でもある余市が近くにあり、積丹の雲丹に余市のよく冷えた辛口ケルナー種
のワインを合わせて飲むのが大好き! 雲丹のなんとも言えない甘くてとろける舌触り
とふんわりと鼻から抜ける磯の香り、ほんのりした甘みと優しい酸味のケルナー種のワ
インが絶妙なバランスで合うのです。
科学的な根拠はまったくわかりません、実際に食べて飲む、ひたすら食べて飲む(笑)、の繰り返しで培ってきた自論と経験からの判断。本書にもあったように味覚の感じ方は千差万別。自分が美味しいと思える料理やワイン、それを同じ気持ちになって楽しんでもらえるお客様や仲間がいたらもう言うこと無しに心から嬉しい! 天にも昇るような気分!
著者の関谷文吉さんとゆっくりと食事を楽しみ、ワインや日本酒などを並べて飲みな
がら、あっ! この魚にはこの酒が合うね、だとか、まてよ日本酒じゃなくてワインの
方がより味わいや香りを引き出すんじゃない? などと会話をしながら時間を過ごせた
らどんなに楽しかっただろうなぁと、どうしても職業病的な発想になってしまいます。
東京湾でアナゴとかハマグリとか、香り高い天然ものの魚や貝がじゃんじゃん獲れる
日がいつかまた来ないかなぁ〜、それを切に願うのは僕だけじゃないでしょう。
『魚味求真──魚は香りだ』は、大切な事を思い出させ、また頑張ろうという元気をく
れる、魅力ある一冊でした。
(カラペティバトゥバ オーナーソムリエ)
魚の味と香りについて語りつくされたこの本を、フレンチの名店コート・ドールやナリサワでシェフ・ソムリエをつとめた味覚・嗅覚のスペシャリスト長雄一さんは、どう読んだでしょうか?