ちくま新書

日本がイスラエルから学ぶべきこと

高出生率、家族中心の伝統、常識を打破する反骨心……。近年、スタートアップ企業の急増等により、世界の最前線に躍り出たイスラエル。古代から続くユダヤの伝統を大切にしながら、なぜ彼らはイノベーションを起こし続けられるのか。『日本人のためのイスラエル入門』の「はじめに」を公開いたします。

†「わが世の春」
 ひと昔前は、イスラエルと言えば、(信徒であるか否かは別として)聖書の世界への憧憬、原始共産主義とも言える「キブツ」への共鳴、あるいは中東紛争のニュースをきっかけに興味を持つ人がほとんどであり、日本での関心は限定的だった。
 しかし最近は、イノベーション大国へのビジネス的関心や、スタートアップ文化の魅惑など、興味の対象、そして興味を持つ階層や世代も変化するとともに、裾野も広まってきている。日本からのビジネス関係者の訪問は著しく増えてきており、ときどき私がイスラエルにて勤務していたことに会話のなりゆきで触れると、「一度行ってみたいんですよ」という反応が返ってくることが少なくない。
 2017年7月からの約2年間、私はイスラエルのテルアビブにある日本大使館の公使(及び経済担当)として勤務した。そこで見たイスラエルは、「わが世の春」を謳歌していた。混迷するアラブ諸国とは対照的に、この一世紀超にわたりゼロから自分たちで作り上げた経済・社会は、大地に力強く根を張っている。「スタートアップ・ネーション」として頭角を現し、小国ながらも最先端技術の大国としての地位を確立してきている。
 建国からわずか70年あまりの現代イスラエルの海岸沿いには新しいビルが立ち並び、テルアビブ勤務はさしずめシリコンバレー出張所勤務の感もある。米国の中東からの退潮、イスラム教内での宗派間対立もあり、イスラエルと関係を持つとアラブ諸国から経済ボイコットを受けていた時代とは様変わりした。経済的、そして地域及び国際政治的にもイスラエルは重要な国になってきている。
 日本は、令和という新しい時代への希望と、ラグビー・ワールドカップ開催の成功を背に東京オリンピック・パラリンピックへの期待に包まれている。その一方で、少子化、経済・社会の大きな変革期の不安感、地域・国際情勢の成功経験の無効化の危機に遭遇している。また、新型感染症の影響が、暗い影を投げかけている。
 少子化は国の雰囲気を暗くギスギスさせている。日本経済の屋台骨と言われる自動車産業は100年に一度の変革の時期を迎え将来が不透明な一方、デジタル化、AI、グローバル化に日本は大きな比較優位を持っていない。また、冷戦後のアメリカ「帝国」の幻想はイラク戦争を境に逆旋回し、全体主義的位相をますますはっきりさせてきている中国が興隆する一方で、今や自由民主主義諸国は守勢に回っているという批評が多くなされている。
 このような状況にある日本の視点からイスラエルを見ると、①高い出生率と家庭中心の社会、②伝統を大切にしてそれを中心として回る社会、③「常識」を打破する精神がもたらすイノベーション、④市民社会と軍隊との関係、⑤徹底した安全保障意識と自存自衛の精神など、参考にできることがある国であり社会であると思う。
 そして、日本がイスラエルと付き合う必要性はこれまでになく増している。もちろん歴史や背景も違うので、単純に移植できるものはほとんどない。しかし、現代の我々の考えるヒント、行動するヒントとして、イスラエルが提示してくれるものは色々ある。
 本稿は、そのような考えから、私がイスラエルを自分の目で見て肌で(違和感を)感じたことからスタートして考え、そして日本に帰ってきてからその考えを反芻し、まとめたものである。

†本書の構成
 序章では、本書を通観するテーマとして、現代日本がイスラエルを参考にすべき理由についてもう少し敷衍してみた。
 第一章は、イスラエル社会の現在について点描しつつ、イスラエルが実際はどんな国でその市民はどんな社会に生きているか、そして「スタートアップ・ネーション」と呼ばれるまでの道のりについて記した。
 第二章では、スタートアップ隆盛の背景にあるイスラエルの強さの秘密について、国防軍の社会での役割と、より深層にあるイスラエル社会の宗教的、文化的伝統についても言及した。ラビを祖父に持ち、代々のユダヤ律法学者の家系に一九世紀に誕生したカール・マルクスの延長線上に、二一世紀のイスラエルのイノベーションとスタートアップ文化がある。
 第三章では、そのようなイスラエルの未来とそこに潜むリスク要因について触れている。
 第四章は、イスラエルとのビジネス協力の実情と現状について。私が日本イスラエル双方のビジネス関係者と多く交流する中で感じた、日本のビジネスの一般的問題と、日本とイスラエルの文化的ギャップに起因する問題について考察した。
 第五章では、イスラエルの政治的存在感の高まり、及び地域内対立の構造が変化している状況を論じた。
 第六章では、日本のパレスチナ支援と中東和平への姿勢について述べた上で、イスラエルと米国及び中国との関係に触れつつ、幅広い二国間の協力の展望について言及している。
 終章では、イスラエルが日本にとって変革の一つの触媒になり得るのではないかという観点から、イスラエル及びイスラエル人の生き様と日本とを比して論じている。
 なお、イスラエルという国は、ユダヤ人のみの単一民族国家ではなく、多数派のユダヤ系と少数派のアラブ系で構成されている。したがって、単純にイスラエル=ユダヤとは言えないが、ユダヤ教及びユダヤ民族の伝統や文化が社会の運営に色濃く反映されていることも確かである。
 一方で、ヨルダン川西岸及びガザ地区にはパレスチナ人(アラブ人)が住んでおり、そこには全く違う現実がある。この本の視点からしてそれらについて多く触れるわけではないが、関連部分ではなるべく複眼的に記述した。
 イスラエルのイノベーションを日本に取り込もうとしても、あるいはこの人たちの思考様式について知り、私たち自身の次のステップのために参考にしようとしても、ヤワなアプローチでは難しく、相手とがっぷり四つに組み合うことが必要だと思う。そのためには、専門分野にこもることなく、この国と民族の政治、経済、文化、歴史、社会について総合的・統合的に迫っていく必要がある。本書が、問題意識を持ってそのようなことを志向していこうという人の一助になることができれば幸いである。
 なお、本稿は全て私個人の見解であり、外務省のそれではないことをあらかじめお断り
しておきたい。
 

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