大学生に書評の書き方を教えるワークショップを、何度か担当したことがある。書評のコツは何ですかと問われ、青臭い言葉だけれどと前置きして「愛と敬意です」と答えた。
自分が面白いと思った作品、自分が大好きな作品を、広く世に知らしめたい。ひとりでも多くの人に手にとってほしい。それが書評の根幹だと私は考えている。たとえ厳しめの批評をする場合であっても、作品への愛と作者への敬意があれば「読んでみたい」と思ってもらえるものだ──。
てなことを偉そうに語ったわけですよ。無垢な学生さん相手に上から目線で「プロってのはそういうものよ、ふっふっふ」くらいの気持ちで語ったわけですよ。
いやもう、穴があったら入りたい。なかったら自分で掘って埋まりたい。それが恩田陸『土曜日は灰色の馬』を読んだ今の正直な気持ちである。お願い、埋めて。
序章は「硝子越しに囁く」と題されたエッセイだ。ホテルに泊まって仕事をしていたときの出来事、街の風景、共感覚についてなどなど、日常で感じたこと考えたことなどが綴られているのだが、まずこれが、打ちのめされるほどに含蓄がある。たとえば写真についての章。
「結局のところ、後で写真を見ながら考えるのは、この写真を撮った時に何を考えていたか、何をイメージしていたか、なのである。写っているものは記憶のよすがでしかなく、決して対象そのものを残そうとしているわけではない。/なんでもない石畳の影や、暮れなずむ空など、それを撮りたいと思った瞬間の気持ちを思い出すために私は写真を撮っている。その気持ちの中に、何かのヒントが隠されていないかと祈りながら」
今や何かあれば反射のようにスマホを出して写真を撮る時代だが、それは対象ではなく、その時の自分自身を記録しているのだとはっきり認識させてくれた。そしてその考え方は、次の章から始まる〈物語評〉にも通じることが、あとでわかる。
以降は三部構成で、小説・漫画・演劇(映画やドラマなど)について著者がこれまで色々な媒体に書いてきた〈物語評〉が収録されている。私が「埋まりたい」と思ったのはここだ。
文庫解説のようにひとつの作品を掘り下げた評論あり、あるテーマで思いつく好きな作品を次々と挙げる章あり、思い出の作品を懐かしく語る章あり。そのジャンルは驚くほど多岐にわたる。小川洋子を悲劇趣味がないがゆえに悲劇を書けると分析し、ブラッドベリは影の国の住人であると喝破する。本格推理小説を伝統芸能に喩え、三島由紀夫のケレンに酔う。一人称小説に関する鋭い考察。『ガラスの仮面』の「引き」に驚嘆し、『愛と誠』の裏番がツルゲーネフを読んでいたことに感動し、ドラマ「24」におはなしの神様がいないことを嘆く。
何だこの流星群の如く次々と降り注ぐ豊饒な世界は!
紹介されたすべての本を読みたくなる。すでに読んだ本はもう一度恩田的解釈に立って読み返したくなるし、未読の本はすぐにでも買いに行きたくなる。なぜか。「愛と敬意」に満ち溢れているからだ。恩田陸はこういったもので作られましたよ、恩田陸はこれのこういうところが大好きなんですよ、という思い。すべての作品と作者に対し、私のところに来てくれてありがとうという思いが読者に伝播するからだ。
そして──前述した写真についての文章を思い出す。写真を撮るということは自分を記録するということ。それは文章も同じなのだ。そして好きな物語について語ることは、自分を語るということに他ならない。ここには恩田陸が満ちている。だから紹介されている本だけでなく、これらによって培われた恩田陸の著書を読みたくなるのである。
最上にして最高のブックガイド、恩田陸ガイドだ。書評家を名乗る自分が恥ずかしい。お願い、誰か私を埋めて。