ちくま文庫

『増補 みんなの家。 建築家一年生の初仕事と今になって思うこと』
変わり続ける、変わらなさ

みんなの家、凱風館が竣工してから8年後の思いを加筆した本書の文庫版あとがきを掲載します。

 最後までお読みいただき、ありがとうございます。このたび、僕が建築家としてはじめて手がけた《凱風館》の物語である『みんなの家。』を文庫として刊行してもらうことになり、8年ぶりに単行本を読み返してみました。だれが言ったのかは定かではありませんが、「処女作には作家のすべてがある」ということをよく耳にします。僕の場合、作家ではありませんが、処女作に立ち向かう建築家一年生による奮闘記というのは、完成して8年(オリンピックでいうと丸々二大会)が経った今、ツッコミどころ満載であることに、驚きました。漫才のボケとツッコミは、二人でやるものですが、僕は時間を超えて、昔の自分と漫才でもしているかのようにツッコミを入れながら「今になって思うこと」を26章すべてに加筆しました。それは、40歳になった僕が、若かりし32歳の自分と対話しながら書いた往復書簡のようなものです。
 あの時の僕と今の僕は、変わったのですが、変わっていない。僕の人生は凱風館の竣工からもずっと地続きにつながっていますが、その間、何度も「跳んで」少しずつ変わってきました。一人の人間が8年間という月日を経て思うことは、勇気をもってジャンプしたら新しい風景を見ることができるということ。それを凱風館で過ごした時間を通して内田先生自身が言葉で語り、背中で指し示してくれています。師とはそういうものです。変わり続けることが、変わっていないということだと昔の自分との対話は、教えてくれたように思います。

 この8年の間でいうと、凱風館の影の立役者である内田先生のお母様とお兄様が、鬼籍に入られました。ご両者ともに、僕は数回しか直接お目にかかる機会はありませんでしたが、そのお二人が内田先生にとってかけがえのない存在であることは、わかります。たいせつな家族ですから。でも、故人となったお二人と内田先生の関係は、生身の人間と接する仕方とはまた別の在り方が存在するということもまた、近くで教えてもらいました。それは、《凱風館合同墓》として大阪の池田にある如来寺の裏の霊園にお墓を設計するという形で関わるご縁をいただき、思い知ることになりました。私たちは、一人では決して生きられない弱き存在だということです。多くの方々と一緒になって、ともに影響されながら、脈々と築き上げられる叡智の上で日々の生活を営んでいます。
 この本にも書きましたが、僕が建築家として働く上で一番たいせつにしていることとして「他者への想像力」があります。他者というのは、みんな違った顔をもち、違った考え方をもっているものです。そんな差異に満ちた他者のことを想像するのに、魔法のような万能な答えなどあるわけありません。
 試験のように模範解答がある「問い」ではなく、その時々に変化する状態に対して自分なりの暫定的な「答え」を出し続けることでしか他者への想像力なるものは、発揮できないと考えます。それは、昔の自分が出した答えをその都度検証し、その都度「答え直す」ということだと思うからです。そのためには、一貫性をもって変わらない頑固さよりも、柔軟に思考し、揺れ動く自分の心に正直に変わり続けることでしか対応することができないと感じています。だから、僕にとって凱風館で武道としての合気道を学ばせてもらっていることがとても大きな役割を果たしているのだと思うのです。つまり、自分の身体を使って思考するということ。自分でもわからない自分の身体に真摯に向き合うこと。わからないことを、わからないままに、けれども、わかりたいと思い続けて、ずっと考える。そのときベストだと思う答えをひねり出し、また考え続けては、答え直す。そうした自らの身体感覚を総動員しながら、生きる喜びを「みんな」と少しずつ共有しながら、生き延びること。
 思えば、凱風館では竣工後、ありとあらゆるイベントが定期的に開催されています。笑福亭たまさんによる落語会、鶴澤寛也さんによる女流義太夫、玉川奈々福さんによる浪曲、森田真生さんによる数学の演奏会、安田登先生による創作能、森永一衣さんによるオペラ演奏会、池田雅延さんによる小林秀雄塾などなど、実に多彩な世界の窓となるきっかけに満ちており、そうした機会を得て思うのは、必ず自分の理解を超えた他者との遭遇を介し、スリリングな対話を重ねることで、いつも勇気をもって「ジャンプ」することで、昨日の自分とは違った少しだけ新しい自分に変わっていく、ということ。そうしたことこそ、「学びの本質」であるのを確信するようになりました。まさに、真剣に変わり続けることを切実に求める者にだけ、背中を後押しする凱風が吹き、それぞれの学びの種がゆっくり芽吹くのではないでしょうか。
 だから、このたび「今になって思うこと」というふうに増補版をこうして文庫として出させてもらえることは、僕自身が変わったことを認識し、変わっていないことも自覚する作業だったように思うのです。矛盾するようですが、僕のなかでは、決して矛盾していない。そもそも、自分が変わったか、変わっていないかということ自体、自分とは違う他者がいて、そうした他者と関わりながらの日々の営みを通してでしか、わかりようがないのですから。
 本文にも書きましたが、僕の人生は、凱風館の完成の後、さながらジェットコースターのように動き続けています。あの落ち葉を拾った書生と結婚し、嬉しいことに愛娘も授かりました。僕にとって、それは大きな大きな変化であり、日常が小さな日々の発見に満ちていることを教えてくれています。鶴見俊輔さんがどこかの本で書いていたと記憶していますが、子供が生まれてきてくれたことで親になり、子育てを通して、自分の両親に対する考え方も少しずつ変わり、我が子のおかげではじめて自分が両親の子供にしてもらったんだという言葉の意味が、今では少し理解できるようになりました。それは、「祝福」という見返りを求めない贈与が、無償の愛として子どもから親へ、また親から子どもへと双方向に実践されるからなのかもしれません。そうして、幸福のバトンは渡り続けるのだと思います。

 多くの他者と関わり、祝福されながら生きられる凱風館という建築は、内田先生を中心とする集団のみんなの人生の「記憶の器」なんです。そこに多くの人が集い、それぞれの小さな物語がうねりながら川の流れのように、ゆっくりと静かに更新されながらみんなの未来をつくっています。こうしたご縁をたいせつにして、感謝の気持ちを忘れずに、少しでもみんなに恩返しができるように、幸せのバトンをしっかりつなげたい。孔子は「四十にして惑わず」と言いましたが、僕はまだまだ迷っています。「変わり続ける、変わらなさ」、という初心を忘れずに、これからも勇気をもってジャンプしたいと思います。
「処女作には作家のすべてがある」かは、わかりませんが、凱風館という建築にしろ、『みんなの家。』という本にしろ、そこには、僕のすべての創造の種があるのかもしれません。先日、とある大学で、「高校生の時に『みんなの家。』を読んで建築家になりたい」と言われて、胸が熱くなりました。死者からの手紙として本を読んできた者として、未来のだれかに僕の手紙も確かに届くのだと実感し、幸せな気持ちになりました。物語は、建築という空間を介して、あるいは、言葉というメッセージを通して、必ず届けられる。そのことを肝に命じて、これからも他者と交わりながら、丁寧に種に水をやり、僕もゆっくり変わり続ける変わらなさをもって、つくり続けたい。

 最後に、この文庫化を実現してくれた編集者の鶴見智佳子さんに感謝したいと思います。3年前に『建築という対話』(ちくまプリマー新書)を一緒につくった彼女がいたからこそ、増補版としてのこの1冊ができたことを大変嬉しく思っています。また、8年前に単行本をつくってくれたアルテスパブリッシングの鈴木茂さんは、僕の最初の本を生み出してくれた編集者であり、その後《祥雲荘》という住宅(詳しくは『ぼくらの家。』〈世界文化社、2018 〉に収録)を一緒につくった、クライアントでもあります。単行本のデザインを担当してくれた福田和雄さんには、引き続き文庫もデザインしてもらい、写真を提供してくれた山岸剛さん、谷口るりこさんにもこの場をお借りして御礼申し上げます。この物語を最初に発信する素敵なプラットフォームを提供していただいた「ほぼ日刊イトイ新聞」の糸井重里さんと担当乗組員の皆様にも深く感謝しております。
 ホントに最後になってしまいましたが、内田樹先生や山本浩二画伯、中島工務店のみなさん、井上雄彦さんをはじめ、この本のなかに登場するみんな、そして、いつも近くでサポートしてくれて、インスピレーションを与え続けてくれる家族には感謝の気持ちしかありません。本当にありがとうございます。
 こうしたご縁のおかげあって、僕は建築家として独立して12年目を迎えることができました。みんなに少しでも恩返しができるように、これからも受け取った大きなバトンをしっかりつなげられるように、精進したいと思います。

 2020年1月 芦屋にて                        光嶋裕介
 

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