律令制の記憶
最近ではテレビ時代劇の放送も少なくなったが、『水戸黄門』の名前を聞いたことがない、という人はそういないだろう。江戸前期の水戸藩主、徳川光圀をモチーフにしたフィクションで、光圀が諸国漫遊のさなか遭遇する悪人を懲らしめてゆく痛快時代劇である。では突然だが、この光圀の別名である「黄門」とは何だろうか。
答えは、中納言という古代日本の官職を、中国風に言い換えた名称(唐名)である。中納言とは、古代の国政を掌る太政官の一角をなす要職で、光圀はこれ(厳密には員外官の権中納言)に任ぜられていたことから、「黄門」と呼ばれる。水戸光圀のような江戸時代の人物も、古代の官職を保有していたのである。
同様の例を挙げれば、忠臣蔵でよく知られた、浅野"内匠頭(たくみのかみ)"、吉良"上野介(こうずけのすけ)"、大石"内蔵助(くらのすけ)"などがある。内匠頭は内匠寮の頭すなわち長官、上野介は上野国の介すなわち次官、内蔵助は内蔵寮の助すなわち次官、と、いずれも古代の官職名である。こうした中には、朝廷から任命された訳ではなく通り名として自称していただけ、というものもあるが、いずれにしても古代の官職名が江戸時代にも残っていることに変わりはない。古代国家という存在は、それだけ日本の歴史に大きな影響を及ぼしたものであったといえる。
古代日本の国家
日本の古代国家は、律令を基本法典とする、律令国家として成立する。
律令国家とは、天皇を頂点とする中央集権国家である。全国に国郡里(のちに郷里制を経て国郡郷制となる)の行政区分を布き、東北地方から九州まで日本列島の広範囲を支配し、日本列島の枠組を築いた国家である。律令国家は、全国的な戸籍を作成して民衆を把握し、国家的な土地管理に基づいて民衆に田を班給し、その収穫の一部を田租(でんそ)として徴収した。また、戸籍は6年に1度しか作成されないので、計帳(けいちょう)という別の台帳を毎年作成して、それを基準に調(ちょう)や庸(よう)といった税、労働力、兵役などを徴発していた。こうした戸籍や計帳の作成はもちろん、それによって個々に把握した人々から定められた額の税や力役を徴収するには、膨大な作業が必要となることは想像に難くないだろう。律令国家はこうした支配を実行する組織を、中央はもとより地方末端までも展開させる必要があった。その担い手が本書の主題、官人(かんじん)である。
律令制と官人
次に、国家が基本法典とする律令についてみてみよう。一口に律令といっても法体系を構成する要素や定義は多様だが、古代の日本およびその手本となった中国の隋唐期でいえば、律(りつ)(刑罰法規)、令(りょう)(行政法規)、格(きゃく)(律令と現実との乖離を埋めるための補充・改正法)、式(しき)(律令の施行細則)、礼(れい)(社会規範・秩序)の5つの要素によって構成されるのが基本的な要件である。
6世紀末以降、日本は徐々に中国の制度を取り入れつつ国家整備を進め、大宝元年(701)に大宝令、翌2年に大宝律を施行したことで、律令国家の体裁を整えた。ただし、律は運用に高度な法典理解が必要であったことから、本格的運用は平安時代まで遅れることが明らかにされている。また奈良時代には、格は単発の法令として、式は例として、各官司(役所)に蓄積されるのみで、基本的に法典として編纂されることはなかった。礼も、儒教思想に基づく中国的な思想を咀嚼し、日本に合わせた形で法に取り込んでゆくのは主に平安時代以降のことである。つまり奈良時代の国家的な編纂法典は、実質的には令が中心である。とはいえ、内容の大部分が現在に伝わる養老令を例にみても、令だけで1000近くの条文数からなる大部な法典である。その内容も、官人の身分や職掌に関わるようなものから、民衆支配、医療制度、刑事訴訟法的なものまで多岐にわたっている(図表1)。国家の運営を担う官人たちはこの令を基本としながら、随時お上から下され、蓄積されてゆく格や式にも則りながら業務をこなさなくてはならなかった。
律令制における君主は天皇であり、究極的には律令国家のすべての権限は天皇に集約される原則であった。ただし当然ながら、天皇一人で日本列島の広範囲にわたる支配は実行できない。そのため、統治システムとして律令制を施行し、そのシステムを動かすために官司機構を設置した。そこに配置される官僚が、官人である。この、律令制における天皇と官人について、律令には「非常の断、人主(じんしゅ)これを専らにす」(名例律18除名条疏議)と、律令に規定のない判断を下すことができるのは君主である天皇のみである、という文言がある。また官人の服務のありかたとして、「凡(およ)そ諸司、事を断ずるには、悉(ことごと)く律令の正文に依れ」(獄令41 諸司断事条)、すなわち官人たちの職務は、律令の規定通りに遂行しなければならない、という規定もある。
現代でも"お役所仕事"のような、公務員を揶揄する言葉がある。利用者の都合としては、もっと融通を……と思うこともないではないが、役人が現場で好き勝手な判断を重ねてゆけば、国家の制度も秩序もなくなってしまう。それゆえ古今東西問わず、官僚あるいは役人と呼ばれる人々の仕事はマニュアルに服することを前提としている。日本古代においても、官人やそれに準ずる役所勤めの人々の数は1万5000人以上、他に学生(がくしょう)や女官(にょかん)も800人以上が存在していた。彼らが天皇の手足となって支配機構を運営するためには、律令というマニュアルが不可欠であった。
このように見てくると、官人たちの世界とはいかにも堅苦しく、取っ付きにくそうである。しかし古代国家が支配を実施してゆくうえで、官人は不可欠の存在である。また古代の官職名が江戸時代にも残ってゆくことなど、律令制が日本の歴史に大きな影響を与えたことも事実である。そして何より、官人は"人"である。歴史は人の営みの積み重ねであるから、官人の世界から目を背けることはできないだろう。
こうした律令官人たちについて、人事制度からとらえてみよう、というのが本書の目的である。働く人々が、役職や能力によって序列化され・実績や能力を評価され・報酬が与えられるという原則は、現代社会も古代国家も変わらない。古代の官人は、どのように国家との関係をもっていたのだろうか。
令を中心とした法典は、断片的な情報の多い古代史の中で、制度のおおよその全貌を伝えてくれる貴重な史料ともなっている。法制史料を軸として、正史である六国史、さらには古文書や木簡といった一次史料をも組み合わせることで、古代の官人たちをめぐる社会を知るための道を拓くことができる。本書では主に中央官制を中心として、官人たちに関わる諸制度や社会の動きを概観しながら、日本の古代国家について考えてゆきたいと思う。
本書の概要
本論は4章だてとなっている。大まかに、第1章から第3章では官人制の構造を奈良時代までの歴史とともに、第四章では平安時代における展開を、それぞれ検討する。
第1章ではまず、奈良時代を中心とした律令国家の支配機構のしくみを概観する。そして律令国家成立以前からの流れを踏まえつつ、日本列島における律令国家成立の意味についても検討を加える。これらを踏まえて、奈良時代前半の政治過程にも目配りしながら、具体的な官人統制のシステムとその性格について考えてゆきたい。
第2章では、散位(さんに)という存在に注目して、下級官人の世界に目を向ける。散位とは位だけ持っていて官職に就いていない者のことである。彼らはどのように生活の資を得ていたのか、国家はどのように彼らを管理していたのか。また、有力な皇族・貴族と下級官人の繫がりはどうだったのか。これらの問題を通じて官人という存在について考えてみたい。第3章でも、引き続き散位に着目して、官人の存在について考えてゆく。国家はなぜ官職にない者まで統制下に組み込もうとするのか、官人たちはなぜ官職に就けない中でも官人であり続けようとしたのか、奈良時代後半の政治動向も踏まえつつ検討することで、官人制への理解を深めてゆきたいと思う。
第4章では、平安時代における官人制の変質と展開について検討する。都が平安京に遷ったことによる官人社会の変化、そして行政システムと官人制の変化を通じ、時代の変化と国家の変容を概観する。また、その一方で官人制が維持されてゆく側面にも注意しながら、日本の歴史において律令官人制が定着してゆく過程を展望してゆきたい。
なお、時代の流れに特化して述べている項目には、見出しに「政治動向」という言葉を入れてある。全体としては厳密に時代順に論じるわけではないが、なるべく時代の流れを見失なわないように、官人制の構造や変化をたどってゆきたいと思う。
それでは、律令官人たちの世界へと続く扉を開いてみよう。