「学者」という言葉を聞かなくなって久しい。「学者」という言葉は「(専門に限らず)広く学をもつ者」であることを含意するから、格式も、敷居も高く、例えば、いま、大学教員が自称するのはなかなか憚られるかもしれない。実際のところ評者自身もそうだ。
現代の大学教員は、専門に特化した「研究者」を名乗ることが多く、一般に社会からも、そのように目されている。「専門以外は市井の人々と何も変わらない」ことが主張されているのだ。そこには昨今の日本社会における大学教員と大学への風当たりの強さに対するいささかの卑下と不必要な責任放棄も含まれている、といったら言い過ぎだろうか。
「学者から、研究者へ」という流れは、この間の教養部の解体、大学院重点化、教育の質保証といった文科省の一連の施策と軌を一にするものだった。
しかし皮肉なことに、大学教員と大学は、この間、どんどん社会的地位を下げてきたといっても過言ではない。かつて「末は博士か、大臣か」と言われたものだが、今や見る影もなく、思いつきでも焼き直しでも何でもいいから「提案」が重要視され、大学教員と大学は役に立たないものの代名詞に成り下がってしまっている。
初学者が何かを学ぼうとするとき、ある種の強烈な偏りやこだわり、超越、そして「この人は(専門のみならず、人生に)確かに多くを与えてくれそうだ」という期待は良くも悪くもモチベーションに大きく影響する。機械やAIの「合理的な教育」では考えがたい、古典的な人間による教育ならではの動機づけのひとつでもある。
最近の教育現場ではこのような感染的動機づけについて、すっかり忘れられてしまっているか、過去の遺物と見なされてしまっている。
もちろんそうした全体性と全体性への期待は不可能性と表裏一体なものだが、自ら口にすることはなくても確かにそうした空気を感じさせる人物のことを人はカリスマと呼ぶ。評者も、筆者をはじめ、折々にそのような師に恵まれ、人生の転機を経て、筆者同様に大学教員として現在に至る。
筆者は生き馬の目を抜く英語教育業界をサバイブしてきた、まごうことなき往年のカリスマ英語教師で、今は大学で教鞭を執る。
本書は不思議な一冊だ。英語教師(アメリカ研究者)、空手家という二つの顔を持つ筆者の半生を辿りながら、「コスパ」や「ワンチャン」への期待が横行する、現代日本の空気と対照的な筆者ならではの英語道とその探求過程が語られる。筆者は英検一級、TOEIC、TOEFL満点と英語教師として華々しい看板を持つが、入り口はそれらでよいとしても本質はスコアでもないし、最近教育現場で重要視される「流暢な英語」ですらないという。それでは、それが何かということについては本書を手にとってみてほしいが、時流に流されない、日本人にとっての英語と英語教育とは何かということを我々に思い起こさせてくれる。
評者は本書を読みながら、随分、昔に好んで聞いた講義中の筆者の口調を生き生きと思い出した。筆者は教壇で大学受験のための英語を教授しながら、時折、その先に控えている大学と学問について熱を込めて語っていた。それによって、少なくとも確かに評者の人生は軌道を変えた。学びは英語だけではなかった。
それからおよそ二〇年の歳月が経過したが、本書を通して伝わる筆者の熱はいささかも冷めていないように思われる。それに比べて評者はどうか。研究者ではあるかもしれないが、世界と学問の全体性の片鱗を引き受けられる教養部門の教員として、不可能だとしても日々、筆者のような熱をもって教壇に立っているだろうか。改めて学問のとば口にたったときの初心を思い起こされてくれる一冊でもあった。
英語に限らず、いま、勉強や学問との関係に悩んでいる、そしてかつて悩んだ多くの人におすすめしたい。筆者の決して器用とはいえない、「英語バカ」と自ら口にする英語道の歩みと探求、現在進行系の挑戦から大いに刺激を受けることだろう。