彼女の名前は

未来のための物語
『彼女の名前は』(チョ・ナムジュ著)、『魯肉飯のさえずり』(温又柔著)に響き合う言葉

『82年生まれ、キム・ジヨン』の著者チョ・ナムジュ氏の短編集『彼女の名前は』(小山内園子、すんみ訳、筑摩書房)の刊行記念イベントが2020年11月5日、下北沢の書店B&Bで行われました。作家・温又柔さんと、訳者お二人のトークをぜひお楽しみください。温又柔さんの著書『魯肉飯のさえずり』(中央公論新社)と『彼女の名前は』が共鳴しあう点も多く、熱いトークとなりました。

 

 

 

 

●キーワード1 「母と娘」

小山内 『魯肉飯のさえずり』と『彼女の名前は』は、一緒に考えることでこれからの道筋が見えてくるかもしれない、共通のキーワードがあると思うんです。そこで全くの独断でキーワードを準備させていただきました。ぜひお二人のご意見をうかがいたいなあと。

 最初のキーワードは「母と娘」です。すんみさんから見ると、外国人女性のお母さんが娘を育てる『魯肉飯のさえずり』はご自分の状況とも重なるのでは。

すんみ はい。自分が母親の側になって見てしまいます。

温 すんみさんがご自身を雪穂に重ね合わせてくださって、すごく嬉しい。

 私はたまたま『魯肉飯のさえずり』で母と娘のことを書いたけれども、雪穂と桃嘉の関係はあくまでもこの二人だからこその関係で、すべての移民の親子がこうとは限らない。母子の数だけ、母子関係があるんですよね。それはたぶん、日本人同士で考えればわかりやすいと思うのですが。母親が外国人の場合、それゆえの問題も多々あります。経済的なこともそうですが、特に日本人夫との関係にもそれは大きく左右される。たとえば日本人男性からの暴力的な扱いを受けながらも、夫の配偶者として日本の滞在許可を持ってる限り、日本にいるためには暴力に耐えるしかないとか。その場合、夫との関係は荒んでるけど、自分の体から生まれた娘なら私のすべての苦しみをわかってくれると思ってしまう母親もいる。それで、娘がそれを負担しないといけない状況があったりする。雪穂はその意味では、桃嘉にばかり頼らずに済んだ。むしろ、娘の幸せのためには苦しくても子離れをしようと努めることができる母親なんです。これは『彼女の名前は』でいえば「長女ウンミ」の母親と重なる。もしも雪穂が、一人娘である桃嘉を自分の唯一の理解者として縛り付けようとするような母親だったら、桃嘉もまた、『彼女の名前は』の「若い娘がひとりで」みたいに、お母さんとの縁を切ることで立ち上がらなければならなかったかもしれない。こんなふうに考えてゆくと、自分の産んだ子にしか頼れない、依存してしまうお母さんをそこまで追いつめた社会もいけないけれど、お母さんが犠牲になっている社会で自分まで犠牲になろうとしなくてもいいんだよ、ということも『彼女の名前は』には書かれていて、これは私が『魯肉飯のさえずり』では書くのがとても及ばなかった領域です。

小山内 「若い娘がひとりで」で、母親は娘が自分の精神安定剤になってくれることを求める。「大観覧車」という、娘が小さい頃にお母さんがいなくなってしまうという物語でも、母と娘が永遠に理解しあえない予感があります。かと思うと先ほどの「ジンミョンのお父さん(あなた)へ」では、母が娘の人生を支える場面も登場する。さまざまな色合いが描かれていますよね。

 母と娘の関係を変に神聖化するのも間違っているし、母と娘は所詮いがみ合うものだと見下すのもおかしいし、そのすべてがある。いろいろな信頼関係の築き方があることを、いろいろな母子を通して描いています。

すんみ 母と娘の関係は、昔から韓国文学でよく描かれてきたテーマの一つです。ですが従来の母と娘の描かれ方は、母と未来の母としての娘というふうに、母と娘を同一線上においているものが多かった。『彼女の名前は』は、小山内さんと温さんがおっしゃったように、母と娘のいろいろな関係性のあり方を見せているところが個人的にはよかったです。

●キーワード2「普通」

 私は子供のときから「自分は普通じゃないらしい」と感じながら生きてきました。子どもの頃の私にとって、「普通の人」とは日本人のことだったんです。でも、よくよく考えたら、日本社会には日本人じゃない人もたくさんいる。ただ、一番多いのが日本人であるというだけなんですよね。要するに私にとっての「普通」とは、多数派、のことでした。日本人ではないという点では私は確かにこの国では少数派ですが、それ以外のことに関して言えば、私も自分は「普通」だと思い込んでいるかもしれない多数派に転じます。その意味で『彼女の名前は』の「彼女たちの老後対策」は重要な作品だと思いました。これは「生活同伴者法」という法律に関連して書かれたものですよね。同性同士で家族になりたいときに、異性愛、家父長制が前提の社会ではなかなか権利が得られない。人を愛する気持ちとか、好きな人と一緒にごはんを食べて、同じ屋根の下に暮らしたいというのは、誰もが持っていいはずの感情です。しかし、たまたま少数派に属している人たちがその権利を享受できないという状況は、あきらかに歪(いびつ)です。

 これはシスターフッドの本ではあるけれども、そういう意味では、「普通」が誰を排除しているのか問うためにもあるな、と。

 私の『魯肉飯のさえずり』に関して言えば、柏木聖司という日本人男性が体現している「普通」は「日本社会」そのものです。『彼女の名前は』では全編をとおして、「男性優位」「家父長制」が強いる「普通」のせいで苦しんでいる女性を描いています。こうした「普通」に抗おうよという意味で2冊は共通しているのかなと思っています。

小山内 「日本の読者の皆さんへ」でチョ・ナムジュさんが書かれていますが、生活同伴者法と差別禁止法は、まだ韓国でも制定には程遠い状況です。女性同士のカップルは確実にいるし、ずっと一緒に暮らしていけば老後の不安はあるのに、何の答えも出ていない。そういう人生が切り取られています。多数派にしか「普通」が許されないことが、物語としてよくわかりますね。

すんみ 『彼女の名前は』の根底には、「普通」と思われている既成の枠組みを打ち破ろうとする意志のようなものがあります。家族や結婚といった既存の社会システムに疑問を投げつづけている。『文藝』2019年秋季号に掲載されたチョ・ナムジュさんの短編「家出」を小山内さんと翻訳していたときも、同じようなことを思いました。家父長制において家の中心となる父親がとつぜん家出していなくなるという話ですが、こういう設定によって新しい家族像を提示しようとしているんですよね。

小山内 「普通」という言葉には、大多数で一般化されているという「普通」のほかに、「最低限ここまでは普通の生活として保障される」という「普通」もあると思います。例えば、第4章の「公転周期」で、女子中学生が生理用ナプキンも買えなくて、自分の工夫で凌(しの)ぐ。マジョリティが「普通」とするいろいろな規範を押しつけられる一方で、最低限の「普通」で生きることは保証されない。そういう矛盾が大きいことを、訳しながら気づかされた。この構造は韓国社会だけではないなあと。

温 お恥ずかしながら私もこれを読むまで、生理用ナプキンが買えずに困っている人がいるのをちゃんと想像したことがなかった。衝撃を受けたし、この小説が書いているように、「一個あげればよい」という話じゃないですよね。いま、小山内さんがおっしゃってくださったように、規範としての「普通」は押しつけられるのに、「普通」に生きることは保証されていないという矛盾に圧倒された一編でした。ソウル市では十八歳以下のすべての女子に生理用ナプキンを支給する条例が整ったものの、いまだに具体的な議論は進んでいないとか。こういう問題があるとはっきりしてるならナプキンぐらいさっさと配ればいいのに、生理を重要視しない政策決定者は誰なのかが透けて見える分、腹が立ちます。

小山内 そうですね。チョ・ナムジュさんの作品を読んでいると、いろんな部分に丁寧に目配せされているなあとよく感じます。必ずしも生理があるから女性だということでもないし、恋愛は異性同士だけでなく同性同士でもある。生理がある体を持つ男性も存在する状況が意識されている。「普通」を決めつけない。 

 自分が多数派に属していると、自分にとっての「普通」が他の人たちにとっても「普通」なのだと錯覚しやすい。そうであるからこそ、自分にとっては「普通」でも、他の人たちにはそうじゃないのかもしれない、ということを様々な角度から想像させてくれるから、『彼女の名前は』は面白いんですよね。

すんみ そうですよね。『彼女の名前は』は、様々な「普通」の別の可能性を想像させる作品だと思います。例えば「老いた樫の木の歌」という短編では、自分で見て聞いて知っている「事実」の他の可能性があるかもしれないということを思わせてくれるエピソードが出てきます。「私」は、二十年も前に家出した妻と娘たちを懐かしがるタクシー運転手の話を鵜呑みにして記事を書きますが、その後あれこれ問題が発生します。そしてこの事件をきっかけに「私」は、自分に見えていた父親と別の人たちに見えていた父親が「全くの別の人」であったことを思い出し、自分に見えていなかった何かへと思いを馳せます。自分が知っていることを「事実」あるいは「普通」と決めつけ、別の可能性を遮断してしまうことの危うさを感じました。

温 これは、夥(おびただ)しい数のウェブ記事が書かれる今みたいな状況で、アクセス数を稼ぐことが至上の目的となっていることへの警笛とも読めました。「巷にあふれるちょっといい話、不思議で、せつなくて、涙を誘う物語。そういうものの陰で身をすくませている誰かがいるかもしれないのに」。おそらく著者ご自身の自戒も込められているのかな、とも思います。私も小説を書く立場なので、なんだかわかるんです。自分が書くもののために、他人の人生の断片を都合よく利用したくなる欲望が。でも、自分の物語を面白くする目的で他人を踏み躙(にじ)るなど、作家として――いや、作家でなくとも――呪うべき無神経さがなければとてもできないだろうとナムジュさんは書きたかったのではないか。

2021年1月29日更新

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小山内 園子(おさない そのこ)

小山内 園子

東北大学教育学部卒業。NHK報道局ディレクターを経て、延世大学などで韓国語を学ぶ。訳書に、『破果』(ク・ビョンモ)、『大丈夫な人』(カン・ファギル)、共訳書に『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』(イ・ミンギョン)、『彼女の名前は』『私たちが記したもの』(チョ・ナムジュ、いずれもすんみと共訳)がある。すんみとともに雑誌『エトセトラ VOL.5 私たちは韓国ドラマで強くなれる』責任編集。

すんみ(すんみ)

すんみ

早稲田大学大学院文学研究科修了。訳書に『あまりにも真昼な恋愛』(キム・グミ 晶文社)、『屋上で会いましょう』(チョン・セラン、亜紀書房)、共訳書に『北朝鮮 おどろきの大転換』(リュ・ジョンフン他、河出書房新社)、『私たちにはことばが必要だ』(イ・ミンギョン、タバブックス、小山内園子と共訳)などがある


 

温 又柔(おん ゆうじゅう)

温 又柔

 1980年、台湾・台北市生まれ。3歳の時に家族と東京に引っ越し、台湾語混じりの中国語を話す両親のもとで育つ。2009年「好去好来歌」ですばる文学賞佳作を受賞。15年『台湾生まれ 日本語育ち』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞、17年『真ん中の子どもたち』で芥川賞候補となった。『魯肉飯のさえずり』で第37回織田作之助賞を受賞。その他の著書に『空港時光』、エッセイ集『「国語」から旅立って』、木村友祐との往復書簡『私とあなたあいだ――いま、この国で生きるということ――』などがある。