●『魯肉飯(ロバプン)のさえずり』の生まれた背景
小山内 温さんの最新刊『魯肉飯のさえずり』(中央公論新社)は、『彼女の名前は』の前月、2020年8月に刊行されました。あらすじを紹介すると、台湾人の母、日本人の父のあいだに生まれた桃嘉は、就活に失敗して自分を見失っている最中に、誰もが羨む高スペック男の聖司のプロポーズを受け、結婚する。でも、日本人の男、聖司の価値観が優先される結婚生活が桃嘉を少しずつ傷つけていく。やがて桃嘉は、幼馴染と共にお母さんの故郷台湾へ旅することになる。
すごく明るく自分を見つけて終わる作品ですよね。『彼女の名前は』と被るところがあるなあ、というのが率直な感想でした。
すんみ 私は温さんの大ファンで、これまでの作品をずっと読んできました。温さんの作品でいつも見られる、自分がその社会の外側にいて異邦人として生きていくことや言葉と言葉の狭間で生きることといったテーマがギュッと詰まっていてすごく心を打たれながら読みましたが、今回はさらに、「人は何によって生きているのか」というテーマが広がっているような印象がありました。
詩人の蜂飼耳さんが文芸誌『すばる』(2020年11月号)に書かれた『魯肉飯のさえずり』の書評を読んでいて、これだとひらめいた箇所があったのでちょっと引用します。
「温又柔の小説を読むと、人はいったい何で出来ているのだろう、と考える。境遇や環境、言語だろうか。それらが組み合わさったところに生じる原因と結果、そして個人の選択だろうか。そのすべてなのだろう。温又柔の小説は、環境がもたらす葛藤の中で新たな自分を見出す人物を描く。必ず何かを見つけて立ち上がり、歩き出すのだ。」
環境がもたらす葛藤の中で新たな自分を見出せる「力」となるもの。生きる力となるもの。それを見つけていく過程が本当に感動的でした。そして『魯肉飯のさえずり』の登場人物たちの「必ず何かを見つけて立ち上がり、歩き出す」姿が、『彼女の名前は』の登場人物たちととても似ているとも思いました。
個人的には、桃嘉の母・雪穂が外国人として日本で子どもを育てる状況に、私自身を重ね合わせました。子どもはいま2歳ですが、韓国人の私が、外国である日本で、日本人であり韓国人である子どもをこれからどのように育てていけばいいか悩んでしまうことがあるんですね。それで、母親の雪穂を「私の先輩だ」と思いながら読みました(笑)。確かにこういう厳しい境遇があるんだろうなとか、こういう悩みを私もこれから抱いていくんだろうなとか、考えながら読みました。娘の桃嘉と母親の雪穂が言葉の問題で葛藤して、和解するシーンがありますが、そこで泣いてしまった(笑)。
温 『彼女の名前は』と一緒に『魯肉飯のさえずり』を取り上げてもらえて、とても光栄です。私はデビューのときから、自分とほぼ等身大の主人公をとおして、外国人の親を持ちながら育った人物の、主に言語をめぐるアイデンティティーの揺らぎを書いてきました。今回の『魯肉飯のさえずり』では、桃嘉がその人物に該当するのですが、同時に、彼女を育てたお母さんの視点も書こうと思いました。もう何年もの間、日本社会でぶつかりあい、分かち合おうとしている、一組の台湾にルーツがある母子の話、プラス、そこに台湾の祖父母のことも加えて書きたいと考えていたんです。それがこの小説を執筆していた期間に『82年生まれ、キム・ジヨン』が社会現象になって、MeToo運動も盛り上がりを見せるようになり、女性たちを抑圧する男性優位の規範に対して、ちゃんと抗っていこう、声を上げていこうという雰囲気が、特に、韓国から日本にも流れ込んできたという、良い磁場があった。それで、私がやろうとしていることも、フェミニズムの文脈に重なる部分が多いなと気づいて。お二人が訳されたイ・ミンギョンさんの本にもとても励まされました。この本の中に「あなたは答える義務がない」という言葉があります。自分が一番「正しい」と信じきっている相手が「俺にもわかるように説明しろ」と迫るような状況は、それ自体が不均衡であるとこの言葉は教えてくれて、そのことを踏まえたうえで「話すのを決めるのはあなた」なのだと励ましてくれました。
それまでの私は、日本育ちの台湾人である自分ほどにはたぶん台湾の事情をよく知らない大多数の日本人たちにむかって、台湾のことや、日台の歴史のことについてわかりやすく説明しなければならない責任が自分にはあると思い込んでいた。そうしないと不親切になると思っていたんです。けれども先のイ・ミンギョンさんの本をはじめ、韓国のフェミニズム運動の流れの中で、自分だけが親切になることはない、自分の作品を読んでくれる人たちの想像力をもっと信頼して、投げっぱなしで相手に考えさせる書き方をしてみようかな、と。
『魯肉飯のさえずり』を書いている間は、まさに高スペック男の夫・聖司が無意識のうちに押し付けてくる「規範」から逃れて桃嘉が自分を取り戻す過程をどう書くかとばかり考えていました。まさに「次の人」のために、自分を見つける道筋を、私もこの小説を通して書きたかった。だから、小山内さんが『彼女の名前は』と被るとおっしゃってくださるのがすごくうれしいし、実は私もちょっとそう思ってました(笑)。
●特権性に気づくこと
温 『彼女の名前は』にもあるんですけど、空気を読まずにいられる人って、それだけで特権的なんですよね。妻や姉妹たちが姑や母とともに正月の準備であたふたしているのに、夫とか兄は「お正月って実にいいもんだねえ」と休暇を満喫していられる。こんな不均衡ありますか?(笑) 私がわざわざ桃嘉の配偶者を高スペックにしたのは、日本社会の中でもあまり挫折したことがないタイプの男性が書きたかったからです。
だから、逆に言うと、男性であってもフェミニズムは必要なんですよね。いわゆるホモソーシャルな共同体に居場所が得られないような人はいっぱいいるわけで、そういう人たちにとっても、女性がそれぞれの役割を超えて、自分の名前で生きようという運動は、絶対にポジティブなものとして響くはずです。だからこそ私は、聖司や彼の母親のさりげない言動を通して、いまの日本社会で空気を読まずにいられる人たちの姿を描きたかったし、そうすることでいつも空気ばかり読まされる桃嘉の境遇と対比させたかった。
小山内 叙事として切り取るという。
温 まさにそうですね。よく考えたら、聖司と桃嘉の関係って、『彼女の名前は』に出てくる「離婚日記」とかと比べると、全然我慢できそうなレベルなんですよ(笑)。べつに義理のお母さんが来て冷蔵庫ガンガン開けたりしないし、「そのぐらい我慢しなよ」というレベルではある。でも、そういう不幸のマウンティングって、絶対よくないですよね。「あの人たちがあんなに我慢しているんだから、このぐらい耐えなきゃ」というのは一番の罠で、それで得をするのは、結局、聖司たち。