本書の著者鈴木公雄氏は、日本の考古学界に大きな足跡を残した研究者として知られている。若かりし頃から先史考古学の分野で数々の独創的な業績を積み上げ、学問的地位を不動のものとしたばかりでなく、後に一転して近世以降の歴史考古学に取り組み、その新境地を開くことに成功した。
一方、鈴木氏が、考古学の教育・普及に並々ならぬ関心を寄せていたこともよく知られるところである。とりわけ考古学研究の基本的枠組みをまとめた『考古学入門』(一九八八年)は、今日においても多くの大学で教科書として使われており、考古学を学ぼうとする者必携の氏の代表的著作となっている。
そうした鈴木氏の最後の著作が本書である。本書は、氏が晩年の闘病生活のなかで自ら企画し出版社に持ち込んだもので、そこには、これが最後の出版物になることを予期したうえでの特別な思いがあったようである。それは「あとがき」に記されているように、考古学の教育・普及のあり方や現代社会との関係をめぐってのことであったが、そこでは意外にも、多くの概説書を手掛け、『考古学入門』という比肩するもののない著作を世に出しながら、氏が、これまでの自身の社会との向き合い方に、必ずしも満足していなかったことが述べられている。
「そうした本の全体の構成や筋書きは良いのですが、中にある一つ一つの章が、読み物 としてのまとまりにやや欠けていて、退屈な感じや中途半端な印象を与えかねない部分がある」
「そうした本」のひとつ『考古学入門』は、考古学を志すものが必ず知っておくべき理論と方法をまとめた、研究の世界への文字通りの入門の書である。しかし入門するわけではない読者にとってはどうだろうか。もちろん通読すれば考古学研究のいろはを、すっと理解できる構成ではある。ただ理論と方法中心の内容に「退屈」さを感じることがないとは言えないだろう。
一方、氏は一九九七年に、より広い読者層に向けた『考古学がわかる事典』を出版する。こちらは研究方法や研究成果に関するさまざまなトピックを取り上げ、短く解説するという構成である。分かりやすさと面白さは申し分ないが、氏は、研究のプロセスを捨象したその内容に、考古学の魅力と意義を伝えきれていないという「中途半端」さを感じていたのかも知れない。
考古学に限らず学問の入門書や概説書は同様の構成を取ることが多い。研究者養成の入口である入門書では、説得力ある結論を導くための理論や方法に比重が置かれ、一般向けの概説書では結論を中心とした説明となる。そこでは、どのような資料をどのように研究すると、どのような結論が得られるのかという具体的な研究プロセスの説明が手薄になりがちである。研究者にとって、それこそが学問の魅力であるはずなのに、である。
鈴木氏が自身の取り組みに満足していなかったことの一端には、こうした点が絡んでいたように思われる。とはいえ、通常、研究の具体的なプロセスはその専門性ゆえに敷居が高く、加えてその成果が現代社会においてどのような意味をもつかを説明しないと、趣味の世界のような印象を与えてしまいかねない。
鈴木氏は本書を、自身の講演の記録や、学生・一般向けの冊子に書いた文章を中心に構成している。一つひとつの話が完結性を持っているので、まずはどこか一章に目を通してみて欲しい。退屈さや中途半端さ、専門性や社会的意義をめぐる難しい課題があっさりと、それもさりげなくクリアーされていることに気づかれることだろう。さらに全体の構成を俯瞰すれば、拡張を続ける現在の考古学の世界を見越したかのような、幅広い内容が網羅されていることも分かるはずである。簡単なようで、これは相当な研究や教育・普及実践の蓄積を要することである。誰もがおいそれと真似できるわけではない。
私は、多様な専攻の学生が受講する講義では、『考古学入門』ではなく本書を用いている。学生の反応もいい。いずれにせよ、本書が「考古学はどんな学問か」を知る最良の書のひとつであることは疑いない。多くの方に読んでもらいたい本である。