ちくま文庫

世界の中心に「痛み」を置けば

川上未映子さんの文筆デビュー作となった表題作を含む7編からなる第一詩集がついに文庫化! 精神科医の斎藤環さんに処女作から最新作までを貫く「痛み」のモチーフについて読み解いていただきました。(PR誌「ちくま」2021年5月号より転載)

 二〇〇八年に青土社から出版された本書は、川上未映子の実質的なデビュー作とも言われる。当時ユリイカの編集長だった山本充の述懐によれば、彼女は編集部にいきなり電話をかけてきたのだという。「音楽をやっている未映子と言います、詩を書いているので読んでほしいんです」と。
 とりあえず投稿を勧めた山本は、その後色々と調べて、彼女が本当に音楽活動をしていてブログの文章も面白いことを知る。結局山本は彼女を会社に呼んで原稿を受けとり、めでたくユリイカ二〇〇五年十一月号に掲載の運びとなった。ここで川上の音楽活動について触れておけば、彼女が全曲の作詞作曲を手がけた「頭の中と世界の結婚」は掛け値なしの傑作であり、とりわけ作詞の水準は本書にほぼ遜色ないと断言できる。
 彼女は、いわゆる日本の「現代詩」のコンベンションの(おそらくは)外部からやってきて、現代詩を少なからず震撼させた。荒川洋治が傑作散文詩「戦争花嫁」(『水瓶』所収)を評して述べた言葉、「歴史とも時代とも無縁なのに、新しいことばの社会がつくられている」(「川上未映子の詩」『文學界』二〇一九年八月号)は、そのまま本書にも該当するだろう。
 本書の冒頭、「一日は憂鬱でありやくそく、叱責でありときどき逢瀬であり、自分と同じでかさ質量のずだ袋を引きずって、ずーるずーる歩く行為であって…」の一節から、すでにしてただならぬ気配が発光している。「女性ならでは」と言いたくなる言葉の連鎖はいたるところにみつかるが、それは「女性にしかわからない」という感覚の共同体に閉じこもる身振りとは無縁のものだ。
 おそらく、そこにあるのは「痛み」のインターフェイスだ。本書のどの作品においても、「痛み」の徴候があちこちに明滅し、それは男女を問わず受信可能だ。例えば川上は、表題作において女性の身体の一部分を「女子の先端」と繰り返し表現する。タイトルに含有される性的なニュアンスは、「女子の先端」が、まさに充血したり膨張したり挿入したい可能性に開かれたりすることで、剥き出しの快楽が「痛み」の受容と表裏である可能性についてのひりひりとした記述を強化する。
「少女はおしっこの不安を爆破、心はあせるわ」では、銭湯の湯船におけるおしっこの是非という問題に、「爆破」のイメージが対置される。湯船でのおしっこは一種の暴力であり、その可能性をまるごと消し飛ばしたいという少女の焦燥感が痛い。
 イメージとしての「痛み」ということでいえば、「ちょっきん、なー」が白眉であろう。毛量の多い少女の髪に、好奇心旺盛な四人の同級生が手を差し入れたまま、生殖にまつわるお喋りをする。毛量の多い少女は帰宅後手首に鋏を突き立て、そこにある「卵」を摘出して代わりに髪の毛を詰め込む。加害と被害、血と痛み、卵と毛髪。
「象の目を焼いても焼いても」では、象の目になぞらえられる図書館の本たちが鋭利な破片となってヒロインに襲いかかる。「夜の目硝子」では、世界のみずみずしい輪郭を手に入れるべく、少女は目の中で割れてしまうかもしれない「目硝子(コンタクトレンズ?)」を装着する。受容と痛みの表裏一体。
「彼女は四時の性交にうっとり、うっとりよ」と「告白室の保存」の二編は、いずれも性交がテーマであり、そこでは男女の享楽の非対称が「痛み」の源泉となる。「四時の性交」では、「量の完全な優位」に圧倒されながらも、彼女は泣く。そして「たくさんの量をうっとりと泣きながら彼女はうっとりした彼女や彼の推論と性交する」のだ。いっぽう「告白室の保存」では、「わたし」が「あなた」を問い詰める。「あなた」には長らく、性交だけをするほぼ匿名の「一年間性交女」と、ちゃんと付き合う「ちゃんと女」がいた。この設定は、「あなた」が口にする「本当の性交」という表現とともに、きわめて村上春樹的だ。匿名の〝量〟として消費される「一年間性交女」の意味が理解できない「わたし」は、彼を電話で問い詰める。そこにあるのは、時に女性をうっとりさせもする根源的暴力としての性交、の痛みとその告発だ。
 思えば川上未映子は『わたくし率~』から『夏物語』に至るまで、一貫して「女性と痛み」を描き続けてきた。まさに処女作にはすべてがある。つまり「処女作」という呼称の慣例においても「痛み」が残響してしまうという意味において。

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