東京は幾千の坂でおおわれている。この消費が爛熟し、なんのためらいもなく過去の風景をぬりかえてきた都市に住まうということは、つねに思い出のつまった空間と時間を失いながら生きるということでもあろう。だが、そんなわれわれの歴史の喪失にあらがうかのように、街に黙したまま張りついた幾千の坂道だけが、ほとんどすがたを変えずに残ってきた。どれほどはげしい再開発や戦火や天災にみまわれようと、坂はそれぞれの名前のなかに、あるいはそれぞれの傾斜のなかに古層の記憶を刻みこんできたのだ。もし東京が坂のない平らな都市であったなら、ひとびとがそこに暮らした記憶をとりもどすことは、もっともっと困難なものになったにちがいない。
父が家をでていったのは、主人公の蓉子が八歳のときである。それ以来、彼女は母親とふたり暮らしをつづけてきた。一方、坂というものを偏愛し、無類の引っ越し魔だった父親は、家族のまえからすがたを消したあとも、都内にあまたある坂の街を渡り歩いていたらしい。なぜか転居するたびに送られてくる便りには、新住所とともに家が建つ坂名が記されていた。時は過ぎ、蓉子は四十歳をむかえつつあった。五年まえに父の訃報を受けとり、その後も結婚することなく仕事にいそしんでいる。いまでは家族三人で過ごした記憶もほとんど忘れてしまった彼女だったが、ある日、ふとしたきっかけから坂をめぐりはじめる。
二年以上の月日をかけておこなわれる彼女の坂歩きは、八歳までともに過ごした若き父の面影と、五年まえ、棺のなかに見た年老いた彼の寝すがたとのあいだに広がる、三十年ちかい心の空白を埋める作業でもあった。なぜ私を捨てたのか――。じぶんでも気づかない胸の奥底で、もうこの世にはいない父の影を蓉子は強く追いもとめている。孤独な彼女の歩みは、まるで巡礼の旅のようにも思える。本書の全体を俯瞰すれば、こんなふうに物語はゆっくりと仄暗い心の坂をくだっていくのだが、もちろんすべてがくだりの坂道であるわけではない。くだり坂もかならず、反対からたどればのぼり坂であるように、陽光に照らされ、幼少期のノスタルジーに包まれた甘美な坂の風情もしっかりとえがかれている。のぼり坂とくだり坂。胸がしめつけられるほど、なにかを深く思い出すということが、いつだってうれしくもあり悲しくもあるように、からだはひとつだけど心はつねにその両岸にやどり、行きまどう。よって彼女は、なんども自問自答をする。この坂めぐりはただ、じぶんのなかに存在する都合のいい父親の思い出をなぞっているだけではないのか、父を訪ねずにいたのも、ほんとうは忘れていたのではなく、捨てられた母子であった事実を認め、ふたたび傷つくことをおそれていたからではなかったか――。
小説のなかごろ、蓉子は歩けば歩くほど父のことがわからなくなる。私は、それでも淡々と坂をのぼってはくだる彼女の足どりを追いながら、永遠にすれちがってしまったひとを、あるいは死者を真摯に考えるということは、いくどとなく、他人をわかるとはなにかという問いにぶつかりつづけることなのだろうと思った。さまざまな過去を呼び覚ます坂の力を借りて、めいっぱい父を考え、想像し、怒り、喜び、悩む。でもどこまでいってもわかるということはない。そのくりかえされる心の道筋はいつしか、変わりゆく季節のなかで坂をくだってはのぼる彼女自身のからだの軌道とみごとに重なっていく。物語の終盤、私は泉下の客となった幾人かの大切なひとたちのことを考えながらページをめくった。そして彼らの死のあと、けっして知りえない他者の心と混交するよすがを、私なりのやりかたで見つけようともがいてきた弔いの時間を思った。
ほしおさなえさんの新刊『東京のぼる坂くだる坂』を西荻窪の雑貨店「FALL」の店主・三品輝起さんにお読みいただきました。東京の坂をめぐり歩く蓉子の、父の足跡を求めての巡礼の旅から見えてくるひとが生きていくことの真実とは――。