脳は、見えない。脳の不具合によって起こる現象も、周囲はもちろん、本人にすらよく見えず、理解は難しい。
「私はここがこういうふうに悪いと自分で正確に言える高次脳機能障害の当事者さんはほとんどいません」と〝きょう子先生〟こと鈴木匡子医師はいう。
言語化されない苦しみは、ないことにされる。配慮もされない。あるいは、「全てできない人」として行動を制限される。脳に病気や障害を持った私たちの最大の苦しみが、そこにある。医療・リハビリの専門職であっても、その苦悩は見えない。その見えにくさが、当事者と支援者を深い谷で隔ててきた。
本書は、自分の障害を的確に言語化できる稀有な高次脳機能障害当事者の〝大介さん〟こと鈴木大介氏と、真摯な医師〝きょう子先生〟が、その谷を埋めるために対話した記録だ。
読んでいて、大介さんに圧倒的に共感してしまう。私と大介さんの症状は似ている。体育会系の病前性格も、認知機能検査にすら対策を立てて取り組んだ結果、「問題ないですよ」と言われて後で困ってしまうことも。そして、自分を救うためにたどり着いた答えが、同じだった。
違うのは、大介さんが、支援職の人たちに高い(と私には感じられる)目標を示し、その達成のための具体的なヒントを豊富に提供していることだろう。医療職、支援職やそれを目指す人たちには、何より貴重な情報を惜しげなく与えてくれる宝物のような書だ。
「高い目標」といっても恐れる必要はない。「経験や知識が浅いから当事者を支えられないなんてことは、決してありません。僕ら当事者を支える想像力豊かな支援者になってほしい」と大介さんはいう。
入院中に一番話しやすかったのは、しどろもどろの若い看護師さん。頼りない弱々しい当事者性にとても救われた、という言葉は、当事者からしか出ない言葉の一つだろう。
新患の人の診察には一時間かけるというきょう子先生も、一つひとつ丁寧に谷を埋め、相互の橋渡しをされている。目の前にあるこの深い谷を埋めるには、両岸にいる者同士が、対話し続ける以外に方法はないのだ。
「学問的な意味では、認知症は広い意味の高次脳機能障害」ときょう子先生がいう通り、本書に書かれているほとんどのことは、そのまま「認知症」と呼ばれる様々な病気にも当てはまる。大介さんは、高次脳機能障害を「情報処理の障害」というが、レビー小体病の私も自分の困りごとの多くをそう捉えている。
違うのは、高次脳機能障害が「年単位で回復していく」ことだ。それは決定的な違いだが、認知症への誤解と偏見から解放されれば、進行速度も病状も大きく変わると私は信じている。
「そもそも全部だめになる人はいないのです。残っている所は生かして、ちょっとうまくいかない所をどうするか、考える」
「高次脳機能障害はとても幅が広く、人によって症状が違いますし、病前の能力、環境、そういうものもすべて違います」
「病識は、白か黒かではなく、その間に灰色の濃淡がある連続的なもの」
きょう子先生の数々の言葉を認知症にもそのまま使いたい。
「当事者にとって必要なのは、救われる、楽になるってこと」と大介さんはいう。「つまずいた時に自分自身の根性や我慢や努力で何とかしようとする癖をやめましょうって伝えることだと思います。なぜなら、最大の環境調整・代償手段って、他者に頼ることを覚えることだから」
大介さんは、重要な発想の転換を提言している。
「他者に頼ることを覚える」。自己責任という非情な言葉を投げつけられるこの社会で、誰もが、苦手としていることだ。しかしあなたが、今、手にしているその健康も、手放す日はいつか来るだろう。老い、衰えていくことは避けられない。一足先に障害を得た大介さんの言葉は、私たちだけでなく、未来のすべての人の歩む道を照らしてくれるはずだ。