ちくま学芸文庫

哲学者による思想史と歴史家による思想史

アメリカ史はどのような観念によって形成されてきたのか。そのことに迫った画期的作品、『アメリカを作った思想』(ジェニファー・ラトナー=ローゼンハーゲン著、ちくま学芸文庫)がこのほど刊行されました。本書が扱う「思想史」とはどういうものかを、訳者の入江哲朗氏が綴ってくださいました。

 私はアメリカ思想史を専門とする研究者である。しかしそう言うとときどき「アメリカ思想史って何ですか」と問われる。この問いに、いままでは私なりの答えを長々と返していたけれども、これからは返答を「ちくま学芸文庫のジェニファー・ラトナー=ローゼンハーゲン『アメリカを作った思想――五〇〇年の歴史』をぜひ読んでください」というひとことに集約できる。拙訳により7月初めに刊行された『アメリカを作った思想』は、小冊でありながらもアメリカ思想史の全体を通観させてくれる画期的入門書であるから、日本の読者に広く読まれることを私は切に願っている。
 ところで、同書は書店や図書館の「哲学」の棚に配架されるかもしれず、そのことに私から異議を唱えるつもりはいっさいないのだが、著者のラトナー=ローゼンハーゲン自身はつねに自らを「歴史家」としてアイデンティファイしている。つまり『アメリカを作った思想』は歴史家が著した思想史なのであって、哲学者による思想史ではない。この事実に私は、同書の「訳者あとがき」で少しだけ触れた。しかしこの事実が何を意味するかは、実のところ、長大な紙幅を費やさずには論じられないトピックである。より詳しい解説を求める方には、私が共訳したブルース・ククリック『アメリカ哲学史――一七二〇年から二〇〇〇年まで』(勁草書房)に収められている拙稿「訳者解説 アメリカ思想史の一分野としてのアメリカ哲学史」をさしあたり紹介しておく。いずれにせよ、本稿の短い紙幅のなかでは仔細な議論を展開しえないので、いまはかわりに、私の個人的な経験に基づくひとつの空想を、思想史に対する哲学者のアプローチと歴史家のそれとの違いが理解しやすくなることを期しつつ綴ろうと思う。
 2019年10月12日に、台風19号が非常に強い勢力を保ったまま関東地方に上陸した。拙宅は多摩川まで1キロメートル強のところにあるため、私のiPhoneはその日何度も緊急速報の受信音をけたたましく鳴らしたし、多摩川の水位が危険域に達したことを伝える市役所のサイレンも聞こえた。NHKは一日中ニュース番組を放送しており、そのなかでアナウンサーが「絶対に川の様子を見に行かないでください」とくりかえし述べていた。私の内なる常識も同じ警告を連呼していた。しかしそれでも、正直なところ、「増水した川の流れをこの眼で直接見てみたい」という欲望が私の心の奥底で渦巻いていたことは否定できない。現実にはありえないとしても、可能世界の私はもしかしたら、今日多摩川の様子を見に行ったせいで命を落とすのかもしれないと、私は愚かにも考えていた。
 さてここで、そんな可能世界の私――「イリエ」とひとまず呼ぶ――の生涯を、未来の火星人たちが地球思想史の一環として研究しようとしていると空想してみよう。火星の哲学者は、イリエの不可解な最期を意味づけるために、イリエが著したテクストの精読に専念するかもしれない。具体的には、イリエが生前最後に発表したテクストであるクエンティン・タランティーノ論に、台風直下の非合理な行動を理解する手がかりを求めるかもしれない。対して火星の歴史家は、イリエの行動を思想的背景に位置づけるべく、地球史料アーカイヴに籠もってNHKの映像を網羅的にチェックするかもしれない。そして、「川の様子を見に行くなとアナウンサーがくりかえし警告しなければならないくらい、増水した川の流れを見たいという欲望は人間にとって根源的である」という仮説を形成するかもしれず、この仮説を補強する史料をさらに探すなかで、たとえば幸田文の『崩れ』(1991)と出会うかもしれない。
 台風襲来の翌日に私は、こうした荒唐無稽な、しかし自分のやりたいことを再確認する契機になったという意味で個人的に重要な空想を抱きながら、晴れわたった青空のもと、多摩川の様子を見に出かけたのであった。

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