ちくま新書

目で見たものを言葉にするのは、なぜ難しいのか?

子どもの絵、グラフ、アート作品など視覚に訴えかける情報を言語化することは簡単ではない。そのためには読みとって、考えて、言葉にする作業が欠かせない。その技を伝える『ヴィジュアルを読みとく技術』の「はじめに」を公開します。

 この世には、写真や絵や映像など、ヴィジュアル情報が溢れている。美術展もあちこちで開かれ、どこも多くの観客で賑わっている。しかし、その豊富さに比べて、それを語る言葉は何と貧しいことか。「自分が楽しめれば、それで良いんだよ」と。その通りかもしれない。友人や恋人と一緒に行くなら、今見たものについて相手としゃべりたくはならないか? だが、そうなってみて、初めて自分には語る言葉が足りないことが分かる。今見たことを語る言葉を、どうやって見つければ良いのか?
 たしかに、大部分の人はヴィジュアルの見方など、とくに教わらないし、その語り方を知ろうともしない。もしかしたら、大学の美術史や芸術学では教わることがあるのかもしれないが、そんな知識に触れられるのは一部の人に限られ、大多数の人はよく分からない。しようがないので「これは好き」「これは嫌い」と手近な言葉で語っていく。
 でも、こんな態度は、何だかおかしい感じもする。なぜなら、他の分野では、だいたい「自分が楽しめれば良いんだよ」では終わらないことが多いからだ。たとえば、スポーツを見るときは、何も知識がないよりは、やはりいろいろ知ってからの方が、見ていても楽しいし、「今のプレーはすごかった」「いや、こうした方が良かった」などと会話も盛り上がる。
 ソクラテスの昔から、理解を深めるのには、対話が一番良いとされる。実際、私も論文や文章を書くときは「まず、構想を人に話せ」と教わった。自分が感じたこと、思ったことを、友人やクラスメートに話すと、それだけで言いたいことが明確になる。さらに、相手から「どうして?」「どういうふうに?」「どれくらい?」などと反応をもらうと、自分の元の感じ・考えを吟味するきっかけになる。そうすると、考えは、さらに先に進むのである。
 それなのに、絵や写真を見るときだけは、なぜ自分の直感を信じて、黙って孤独に鑑賞しなければならないのか? それで何かの感じを得たとして、それが本当に自分の感じたことだったのだろうか? よく分かってもいない段階で、いくら自分なりの感覚を得ようと頑張ったとしても、それは当てになるものなのか? 当てにならないものを当てにして判断していいのか?
 良き友人なら、言葉の誤魔化しなどすぐ指摘してくれる。平凡な理解だと思えば、「それ、どこかで聞いたことがあるな〜」と言ってくれる。そういう相手がいてこそ、自分の感じたことの根源はどこにあったのか、と遡りつつ吟味も出来る。
 とすれば、ヴィジュアルや絵を見て、「専門家ではないから、大した感想も言えない」という状況は、大いに不幸な状態ではなかろうか? 我々は、専門でないものでも、いろいろ感想を言う。思ったこと感じたことを言うことで、人生が豊かになったり、物の見方がレベル・アップしたりするなら、楽しいことではないか? たとえ、専門的でなくても、自分の視点からモノを眺め、少なくとも、何か出来合いでない言葉で表現できれば、「自分」という独特の体験を深く味わい、喜びを得ることにつながるはずだ。
 この小著では、視覚から入ってくる情報をどうやって言葉にする、つまり言語化すべきなのか、段階を追って扱おうとした。「人それぞれ」という感覚の雑な表し方の批判から始まって、グラフや絵などのヴィジュアル情報の言語化・解釈を統一して扱い、どこをどう押さえれば、妥当な捉え方になるか、その方法を説明した。後半は、その方法を応用して、古今の名画や美術作品を読み解こうとした。
 もちろん、これは名画解説ではないし、美術知識の披露でもない。そもそもアートというメディアは、基礎知識がなくても誰でもアクセスできるのが原則だ。知識はあった方が良いが絶対ではないし、知識があることが、よく見ることを妨げる場合だって少なくない。専門家でなくても、とりあえず、見ることで何かに気づくことができる。だが、何に気づくか? どうすれば、自分がそれまで持っていた経験や知見と結びつけて、深く感じられるのか、その道筋を分かりやすく示したい。
 そういえば、文部科学省の共通テスト改革では、国語で、自分の考えを言語化する「記述問題」を取り入れたり、複数の文章を並べたりすることで、理解・読解能力を新しい方向に導こうとしている。そういう方向の先には、ヴィジュアル情報の「読解」も構想に入っているらしい。最近のメディアの急速な変化を考えれば、美術の専門家でない人も、持ってしかるべき能力なのだろう。
 見たものを語る技法は、別にアートや芸術学の語彙や話法の中に閉じ込められているわけではない。むしろ、アートやヴィジュアルは、そういう限定された話法を超えて、我々が生きる世界に直接つながる。それぞれが自分の語彙を利用して、あるときには哲学の、あるときには政治学の、またあるときは社会学の話法で語っても全然構わないはずだ。さまざまのバックグラウンドを持つ観客が、アートやヴィジュアルを見て面白がり、経験や見方を豊かにする方法はないか? そういう問題意識が、この本の根底にある。この試みを何かの参考にして、読者の方々が自分なりの見るというシステムを形成していただけたら、これにまさる喜びはない。それでは、始めていこう!