私が大学院の修士課程を終えたとき、指導教員のM教授が定年退官された。送別会のスピーチで、英文学専攻の在学生一同を前に、先生が私たちへの餞(はなむけ)として言われた言葉を、私はいまも鮮烈に覚えている。「誰もあなたに関心はない。自分を消して、ひたすら作品を照らし出しなさい」。前にも一度、論文のなかで「私」という言葉を使って、先生から注意されたことがあった。「『私』とは、誰ですか? もし論じているあなたのことを指しているのなら、客観的に『筆者』と書きなさい」と。以来、この〈自己滅却〉の精神が、文学研究の道を歩むさいの、私(ここでは、「私」としておく)の指針となった。
専門家になっても文学研究とは何なのかわからず悩んでいる人を時々見かけるが、おかげで私は、比較的迷いが少なかったように思う。とにかく、自分をどう表現するかは頭から排除して、ただ作品のみに集中し、対象を照らし出すさいの光の強度を上げること、つまり、明確に立証することが、批評の仕事なのだと思ってきた。誰でも自分の師の影響を受け、後進に同じことを伝授してしまいがちだ。さすがにいまの時代、「誰もあなたに関心はない。自分を消して――」とは言いにくいが、そのぶん、「作品を照らし出しなさい」という口調が強くなってしまう。「明確に、客観的に、論理的に」といった指示のうるさい、厳しい教師だと、私は学生に思われてきたことだろう。
それに対して、本書の著者北村氏は優しい先生だ。「批評はあなたが作品を楽しむためにあるのです」「批評を他の人とシェアして、コミュニティをつくりましょう」と、著者は〈教室〉の受講者たち(読者)に、くつろいだ口調で語りかける。本の至るところに「私」は登場し、まさに、この本そのものが、一人称語りの批評であると言ってもよい。「チョウのように読み、ハチのように書く」という副題からも、読者と同じフロアに立って親密なコミュニケーションを交わそうとする著者の息づかいが伝わってくるようだ。これは、あるボクサーの「チョウのように舞い、ハチのように刺す」という有名な言葉を踏んでいるそうで、軽いフットワークで作品に触れ、鋭く一箇所を突くための技を身につける、という本書のねらいを示したものである。
本論は四章構成から成り、それぞれの章題にあるとおり、「精読する」→「分析する」→「書く」→「コミュニティをつくる」という四段階を順に追いながら、批評の方法をわかりやすく解説していく。軽やかなフットワークで蓄えられた該博な知識をもとに、あちらの映画作品から、こちらの演劇や小説、そしてロックの歌詞へと、まさにチョウのように飛び移りながら、著者は豊富な例示を披露する。一箇所ポイントを突いて掘り下げるさいの針の鋭さも、痛快だ。個人的には、新美南吉が好きなので、『ごん狐』の鮮やかな分析に、わくわくした。フットワークの重い私なら、『ごん狐』で足が止まってしまい、何種類もの分析を試みたくなるところだが、著者は、〈美食文学〉というひとつのおいしい観点に絞ってひと針刺したら、あっさりと次なるコツの伝授へと舞い移っていく。
最後に、冒頭の大学院生時代の思い出に戻り、M教授のスピーチにあったもう一言を、つけ加えておこう。それは、「内的理由のために論文を書きなさい」というものだった。先生は決して、苦行のように作品に接しなさいと言われたわけではない。「作品を照らし出す」ことは、作品の面白さやすばらしさがわかるようになるということであり、実は、これほど楽しいことはない。いかに面白いかを他の人に伝え、その楽しさを共に分かち合いたいという思い、つまり、「内的理由」があるからこそ、私たちは批評する。M教授と著者北村氏の言っていることは、意外とどこかでつながっているのかもしれない。
『批評理論入門――「フランケンシュタイン」解剖講義』の廣野由美子さんに、『批評の教室』の書評をご執筆いただきました。廣野さんの批評と北村さんの批評の違いとは、そして奥深くでつながっているものとは――。(PR誌「ちくま」10月号より転載)