ちくま新書

動物の賢さについてのあなたの常識をひっくり返したい

『魚にも自分がわかる――動物認知研究の最先端』はじめに

2019年、日本発のある研究が世界に衝撃を与えました。大阪市立大学理学部・動物社会研究室(通称)が、「魚が鏡を見て、映っているのが自分だと理解した」という研究結果を発表したのです。
これまで、鏡像自己認知ができるとされてきたのは、類人猿、イルカ、ゾウ、カササギだけ。同研究室教授の幸田正典さんは、寄せられたさまざまな批判に対して、一つずつ新しい実験を組み立て、自身の仮説を証明していきます。そのなかで、従来の鏡像自己認知実験が陥っていた重大な罠が明らかに――。
「科学的に考える」とはどういうことか、その楽しさがつまった本書の「はじめに」を公開します。

 ホンソメワケベラという小さな熱帯魚が「鏡に映った自分の姿を見て、それが自分だとわかる」という研究を、ここしばらく行ってきた。その研究の、きっかけ、失敗談、発表するまでの苦労などの研究の過程を中心に、さらにその結果から見えてくるものを、書き下ろしたのが本書である。魚が自己認識できる、あるいは自己意識や自意識を持つという、あまりにも常識からかけ離れた主張であり、「ほんまかいな」と思われる向きも多いことだろう。そう思われる方にこそ、ぜひ本書を読んでいただきたい。

 これまでの、そして現在の世界の自然観や動物観は、人間が頂点にあり、知性や社会性などにおいて、順に霊長類、その他の哺乳類、鳥類、爬虫・両生類、魚類と劣っていく、あるいはより原始的な存在であると見なしている。その底辺に置かれる魚類に至っては、本能的にしか生きられず、感情すらないと見なされていた。もっと言うと、10年前までは痛みさえわからないとされていた。そのような、しかも10㎝に満たない魚が鏡を見て自己を認識できるというのだから、にわかには受け入れられないのは無理もない。

 しかし、本書を読めば、おわかりいただけると思う。これまでのヒトを頂点とする価値体系がおよそ間違っているのである。脊椎動物は、形態や知覚だけではなく、知性の面でも連続的であって、決してヒトや類人猿だけが特別な存在なのではない。控えめに言って人と動物との間にはルビコン川はないというのが私の立場だ。

 本書は動物に対する感情移入や擬人化による思い込みとは、もちろん無縁である。都合のよい資料や解釈では話にならない。きちんとした仮説検証の結果に基づいているし、そうでない場合はきちんと断っている。

 魚が鏡像自己認知できることを示す最初のデータが出てきた今からおよそ10年前、スウェーデンで開かれた国際学会で発表を計画した。残念ながら直前に私が病気で行けなくなり、共同研究者の武山智博さん(現岡山理科大学)とアレックス・ジョーダンさん(現マックス・プランク研究所)が、代理で発表してくれた。そのときは、研究方法の問題や結果の解釈などに批判が集中し、まともに内容を受け取ってもらえなかったそうだ。発表後、アレックスは個人的に酷く突っ込まれ、「僕も魚が鏡像自己認知できると信じていない」と言ってその場を乗り切った、と帰国後私に明かしてくれた。

 しかし、実験結果は小魚にも鏡像自己認知できることを示している。小魚の自己認識や自己意識など馬鹿げていると言われても、小魚は自分がわかっているのだ。おそらくこれは、あまりにも常識を逸脱した研究が経験する試練なのだろう。まさにガリレオの心境だ。「汝の発言は神を冒瀆するものであり、断じて許されない」と裁判官に言われ、その場では謝罪と改悛の情を見せつつも、帰り道、「それでも地球は回っている」と言ったという、あの有名な逸話である。比べるのもおこがましいが、当時の我々はそんな心境であった。

 しかし、その後、この研究は論文として発表され、批判だけではなく、賛同の声も数多く挙がりだす。さらに研究を続けると、むしろこれまでの「魚はバカだ」という考えこそが間違いであることがわかってきた。現在、その研究はさらに進んでおり、それらも併せて紹介したい。

(中略)

 魚類の自己意識に関する問題に取り組んでいるのは、世界でも我々の研究室(大阪市立大学理学部・動物社会研[通称])だけである。我々の研究成果は、これまでの常識と大きく異なり、魚の自己意識、その他のいくつかの「賢さ」、そして「こころ」さえも、どうも人間とかなり近い面があることを示している。これまでの常識を正すときが来たのかもしれない。

 本書では、これらの研究の臨場感も伝えつつ、仮説検証型の研究の進め方の醍醐味を一緒に体験していただければと思っている。動物の賢さについてのあなたの常識をひっくり返したい。このような内容であるが、決してかたくはない。面白いことは請け合う。

 

『魚にも自分がわかる』目次
第一章 魚の脳は原始的ではなかった
第二章 魚も顔で個体を認識する
第三章 鏡像自己認知研究の歴史
第四章 魚類ではじめて成功した鏡像自己認知実験
第五章 論文発表後の世界の反響
第六章 魚とヒトはいかに自己鏡像を認識するか?
第七章 魚類の鏡像自己認知からの今後の展望