ちくま文庫

『変半身』で変わったこと

劇作家・演出家の松井周と共同で原案を作り、それぞれ舞台と小説にするという村田さんにとって初めての試みで書かれた『変半身』。死をも覚悟したという、その取材の過程から得たものとは――。「ちくま」12月号より転載します。

『変半身』はどういう経緯で書かれた小説なのですか、と聞かれると、説明するのが難しい。「本作は村田沙耶香と松井周が三年におよぶ取材・創作合宿を経て、共同で原案を創り、それぞれ小説と舞台として発表するプロジェクト=inseparableのために書き下ろされた。」と書かれてはいるが、もう少し詳しく説明ができたらなあ、と思う。
 私が松井周さんと出会ったのは、このプロジェクトの何年も前だった。一緒に演劇を観に行ったと記憶している。それから松井さんといろいろなお話をし、一緒に何かやったらどうですか、と誰かにご提案いただいて、このような話になった……ような気がする。
 私は一人で小説を書くときは、いつもノートに登場人物の似顔絵をかき、設定を作るところから始める。しかし、このプロジェクトは私一人の創作ではない。
「まず、旅をしましょう。合宿しましょう」
 と、提案してくださったのは、制作の三好佐智子さんではなかったかと思う。小説を書くときに、まず旅をする、という発想は自分にはまったくなかったので、すごく驚いた。
「島がいいと思います」
 という提案も、自分の勝手な記憶では三好さんだった気がする。当時のグループLINEの履歴をみると、いろいろな島の名前が挙げられているが、タイ料理を食べながらのミーティングで神津島に落ち着いたようだった。
 三好さんは体調不良になってしまい、松井さん、担当編集の山本充さん、私の三人で小さな飛行機で神津島へと向かった。
 結果的に神津島は忘れられない旅になった。一番忘れられないのは、軽い気持ちで登った山で命の危険を感じたことだ。
 枚数に制限があるためざっくり説明すると、まるでお散歩のようにふらりと山を登り始めてしまい、私は密かにどこかで水を手に入れたかったのだが自動販売機がまったく見当たらず、手持ちのペットボトルだけを頼りに、山道を歩くことになってしまった。海辺から歩き始めたので標高から皆が想像していたよりかなりハードで、日頃から運動不足の私は目の前が白くなってきてしまった。「すみません、お二人は先に行っててください、あの、私は少し休んでから、この辺をふらっとお散歩して帰るんで」と言っている私を、松井さんは「ふらっとお散歩するところなんかどこにもないのに! 村田さん!」と思っていたらしい。申し訳ないのだがその場で座り込み、すこし頭を低くして休ませてもらった。しかしこのまま暗くなってはそれはそれで死の予感がする。人影はどこにもなかった。
「あの、ごめんなさい。私が知っている長野の山と違って、水の音がしないんです。頂上に水があると思いますか? 湧き水とかそういう気配もまったくないんです、川も……」
 そのとき松井さんが、「水はある!」とまったく根拠なく叫んだことを、忘れることができない。結局下山するまで水はなく、しかし松井さんは山の中で足跡を見つけ、「人だ! 人がいる!」と嬉しそうに教えてくれた。
 無事に旅館についてからもいろいろあった。夜中、血だらけで蹲っている、(お酒を飲みすぎてしまったらしい)おじいさんを松井さんがテキパキお家に連れて行ったことも廃墟から走って逃げたことも強烈に印象に残っているが、それは違う機会で述べたい。旅館の食事を食べながら、「なんか、もう、島ですよね」ということだけは決まり、箸置きに「島」とメモした。そうして、二人で架空の島を作ることになった。
 それから、他の島への旅、城崎での原稿合宿と朗読会、と、記憶にある限り、三回(松井さんは四回)旅をした。間抜けなことに、書き始めてから、自分は設定を弄りながら書くタイプの作家だったということを思い出した。いつもなら、地図や年表を勝手に変えてしまうのだが、それができない。「松井さんごめんなさい」と思いながら、小説の中に、勝手に新しい地図を作ってしまった。優しい松井さんが本当はどう思ったかは、怖くて聞いていない。
 不思議な経験だったけれど得たものは大きく、私は今、また神津島が出てくる小説を書いている。この場所が、形を変えて、何度も自分の小説の舞台になると感じている。そういう場所が旅によって自分にできるとは、思っていなかった。小説の中に一人で「取材のための旅」をしてもこうはならなかっただろう。旅は、作家の中の地図をあらゆる意味で増やす。その経験を与えてくれたこのプロジェクトに感謝し、いつか、こっそり、また旅から小説を始めてみたい、とちょっとだけ思っている。

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