筑摩選書

ろう当事者集団へ、隣接領域からの提案
吉開章『ろうと手話――やさしい日本語がひらく未来』書評

『ろうと手話』は、日本語教師や日本語教育関係者に向けて、ろう者と手話の事情を伝える本です。ただし、評者の中島さんは「著者の想いの核心は、本書の後半に凝縮されている」と言います。本書の監修を務めた、社会言語学者でありろう学校教諭の中島武史さんによる書評を公開します。(PR誌「ちくま」12月号より転載)

 本書は『ろうと手話』という主題にもかかわらず、主な読者層として日本語教師など日本語教育関係の人たちを想定している。この一見的外れにも思える想定読書層の設定が、すでに本書の特徴のひとつであり、著者が本書に込める想いの一端でもある。日本語教育推進法の成立からもわかるように、在住外国人への日本語教育はその必要性が認知されている。しかし、外国にルーツがあるわけでもないが、計画的に日本語を学ぶ必要がある子どもたちがずっとずっと昔から日本で生活していることは、日本語教育関係者にあまり知られていない。ろうの子どもたちである。この点で日本語教育は、ろう教育と隣接するご近所さんなのである。実は隣接し、それゆえろう者と手話の置かれている社会的状況をスムーズに理解できる可能性が高いのは、日本語教育関係者だ! この気づきが本書の出発点であり、想定読者の設定へとつながっている。
 著者の吉開章氏は、広告会社で勤務しながら日本語教育を学んだ。日本語を母語としない人たちが理解しやすいよう語彙や文法を調整した「やさしい日本語」についての講演や研修を行う一方、「やさしい日本語」をツーリズムに活用する事業を立ち上げるなど、活動家としても日本語教育に携わってきた。ある時、1冊の本に出会い手話が言語であることを知る。そこから、著者が当事者との交流や様々な文献の読み込みを経て学んだ、ろう者と手話の歴史や現在置かれている状況の詳細が、本書の第1章から4章として具現化されている。
 取りあげられるトピックは、現在の特別支援教育にいたるまでの障害児教育の流れ、「ろう」や「聴覚障害」のさまざまな認識のされ方、ろう教育において長らく手話が禁止されていた歴史、言語としての手話が復権する過程などである。また、聴力を活用する「聴覚口話法」と日本手話を教育言語とする「バイリンガルろう教育」、人工内耳装用児の増加に伴う医学モデル偏重傾向、手話の定義や捉え方に関する当事者集団間での意見不一致の様相など、現状と課題をまとめている。日本語教育関係者のみならず、これからろう教育に関わろうとする人にとっても入門書として読む価値がある。
 しかし、ろうと手話の見取り図である前半部は言わば導入である。著者が本書に込めた想いの核心は、第5章から「おわりに」までの本書後半に凝縮されている。それは、日本語教育・やさしい日本語製のタグボートを作り、ろう当事者間の複雑で硬直化した状況に変化を促そうとする意欲である。たとえば、420の自治体で手話言語条例は成立しているにもかかわらず、手話言語法は制定される兆しがない。手話の認識が当事者間で一致せず運動が一体化しないからだ。5章と6章では、ろうと手話の現状に対して日本語教育関係者が協力できることを複数提案し、ろう者のサポーターを増やそうと試みている。本書のミソとなる箇所であり、手に取って直にその中身を確認してほしい。また「おわりに」では、ろう当事者へのギリギリの提言がなされる。当事者が最も大事にしている手話について、呼称を変更することで連帯する案を提示したからである。手話呼称は、当事者のアイデンティティと生き方、パワーバランスに深くかかわる論点であり、非当事者が容易に踏み込むことはできない。評者が専門とする社会言語学の視点から見ても危うさをもつ訴えだ。ただし、著者の意図は当事者集団の対話が増加することにあり、批判も織り込み済みでタグボートを作ろうとしているのであろう。
 ここまで書いたように、本書はろうや手話の専門家でも当事者でもない著者が、日本語教育関係者を良き理解者として啓発し、ろう当事者集団間のある種の硬直した関係性に何らかの揺らぎを与えようとする試みである。その意味で本書に結論はなく「きっかけ」があるだけだ。さて、本書は思惑通りに日本語教育関係者の関心をろう者や手話に向けられるだろうか。また、ろう当事者集団やろう教育関係者にも何らかの影響を及ぼすだろうか。本書が引き金となり異論や批判を含めいくつかの議論が起きたならば、本書の目的は十分達成されたことになるだろう。

2021年12月13日更新

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中島 武史(なかしま たけし)

中島 武史

1983年大阪生まれ。CODA(Children of Deaf Adults)。大阪大学博士(言語文化学)。2007年より大阪市立ろう学校(現在の大阪府立中央聴覚支援学校)中学部英語科の教員として勤務し、現在は大阪府立だいせん聴覚支援学校英語科教諭、関西学院大学手話言語研究センター客員研究員。著書に『ろう教育と「ことば」の社会言語学 手話・英語・日本語リテラシー』がある。