短歌も映画も時間を描くもの
杉田 短歌って、ある時間を描いていると思うんです。1秒とか5秒とか。映画も一緒なんですよね。映画の場合は短編だと20分ぐらい、長くて30分ぐらい。長編だと60分以上って、時間が伸びてるだけで。でも人の一生にくらべたら、1時間も数秒も、あんまり変わらないですよね、省略具合は。
枡野 まあ、人生にくらべたら、ですね。
杉田 映画はたまたま60分ぐらいの中に、ある人物の人生の「ここと、ここと、ここを見せます」っていうふうに、時間を切り取っている。短歌は、一点突破で、「ここ」を切り取ります、みたいな。
枡野 なるほど。
杉田 どうしてそこを選ぶか、っていうと。その時間をかたちとして満たすと、その前後の、描いてない時間も見渡せるようになるっていうところを、自然に選んでるんじゃないかなって思うんですよね。穂村弘さんも好きという、東さんの短歌で、新聞紙が桃の皮でにじんでいく歌⋯⋯。
東 《廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て》(『春原さんのリコーダー』)
杉田 はい。あれも数秒ですよね。
東 そうですね、数秒ですね。
杉田 湿り気が新聞紙に伝わっていく時間とかも、ちょっと感じつつも、短歌の主人公の人生みたいなものが伝わってくるから、私自身も好きですし、ファンが多い歌なんじゃないかなって。
枡野 私も好きです。
杉田 その人の人生が、その数秒を見ただけでも心に迫ってくるような短歌だから広まってくような気がしています。映画でやるときも同じで。その数秒が数十分になるだけなんです。作業としてはやりやすいって思うんですよね。だから、おすすめです、短歌を映画化するの。
枡野 というか私は、杉田監督の映画の撮りかたが、短歌と相性いいんだと思いますよ。ある部分しか見せないけど、そこに想像される余地がある。余白がすごく多いっていうとこだと思うんですよね。
東 杉田さんが「ねむらない樹」(vol.3の映画特集の座談会)でもおっしゃってたのは、「それぞれの短歌が持っている謎に対して、謎をぶつけているだけ」、と。「短歌の解説をしたいとも思わなかったし、解説できないし」って。短歌の持ってる余白を、読み解いていくんじゃなくて、自分の持っている謎を重ねるという、それが杉田さんの独特の方法で、そこが感銘を受ける点かなと思います。
杉田 いつも撮影を担当してくれている飯岡幸子さんの撮りかたが、また特別なんですよね。『春原さんのうた』の照明を担当した秋山恵二郎さんは、商業映画とかテレビドラマにも関わっているかたで、それこそ最近話題になったドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』、あれの照明も秋山さんなんですけど⋯⋯。
枡野 そうなんですね! 夢中で観てました。
杉田 その秋山さんが、見習いの助手のかたに撮影中に小声で説明してるんですよ。「ここにカメラを置くと、あそこのあれが見えないでしょ。普通は見せるからね。でもね、こういう映画もあるの」、みたいに伝えてるんです。
一同 (笑)
枡野 研究材料になっちゃってたんですね。
一同 (笑)
杉田 ほんの30センチ、カメラの位置を移動するだけで、あるものがもっと見えるようになるのに、それを選ばないんです。なにか、私と飯岡さんの中では、「そういうことじゃない」みたいな判断が、最終的に発動しちゃうんですよね。カメラを30センチずらすことで失うものの方が大きければ、元の位置を優先する、っていう。
東 普通だと映画の原作を買って、「ほうほう、ここがこういうふうになって、ここが省略されてる」っていうの、楽しみますけど。
杉田 原作が収載されている歌集を読んでも、答えというより、謎が深まるだけかもしれないです。