最近気になるフレーズがある。「寄り添う」という言葉だ。政治家はよく使う。たとえば「国民に寄り添う」とか「沖縄に寄り添う」とか。やさしそうだけど他人事のように聞こえるときもあってザワザワする。その場だけのように思えたり、上から目線も感じてしまう。使う人によってはむしろ距離の遠さを証明しているような言葉だ。
松本創さんの新刊『地方メディアの逆襲』はたくさん読みどころがある。まず地方メディアの強みは「現場があること」「時間軸が長い」「当事者性を帯びている」と三点述べているが、これはつまり報道している人もその地域の共同体の一員であるということだ。さまざまな政策は「東京の永田町や霞が関で決まるとしても、それが実行される現場は地方にある。現場があるということは、具体的な課題や困難に直面する人びとがそこにいるということだ」(「はじめに」)。
最初に取り上げられているのは「秋田魁新報 イージス・アショア計画に迫る」。陸上配備型迎撃ミサイルシステムの配備候補先が秋田だと東京発のニュースで知って地元記者は戸惑う。全国紙からしてみれば「秋田」や「新屋」は遠い場所であり記号にしか過ぎないだろう。
《だが、地元紙は違う。徹底して地域に立脚し、その視座から世界の安全保障問題に向き合っていくしかない。(略)イージス・アショアについて日本で一番詳しい新聞になろう。そのためにやれることは何でもやろう。》
その結果、政府の新屋ありきという計画ゆえの「ずさんデータ」を突き止める。読んでいて思ったのだけど、秋田魁新報の記者が最初から防衛問題に詳しかったらあのスクープは生まれなかったのではないか。読者と同じような知識レベルからだから何でも調べることを決意し、積み上げ、素朴な疑問を問い続けたからこそたどり着けたのではないか。その姿勢は頼もしいし何より親近感がある。地元の勉強会ではこんな風景があった。「記事の切り抜きを手にした方が何人もおられるんです。そうか、これが新聞の役割だと。手ごわいものや大きな権力が相手でも、市民の代わりに取材し、疑問や知りたいことに答えていく。それこそが記者の使命なんだと原点を再確認しました」。
ここには「寄り添う」という言葉はない。自分たちの「切実」であるからだ。地元紙の役割である。
地域の話題に踏み込み、議論を喚起し、人びとの生活がよくなるような手助けをする報道スタンスのことを「パブリックジャーナリズム」と紹介されているが、本書では秋田魁新報のほかに、沖縄県知事選挙をめぐるネットデマを検証した琉球新報、地方テレビ局発のドキュメンタリーで問題提起を続ける毎日放送や東海テレビが取り上げられている。「京アニ事件」で実名報道について向き合い、煩悶した京都新聞、「ゲーム条例」の不透明さを暴いた瀬戸内海放送の調査報道も書かれている。
筆者は「地方にこそジャーナリズムが生きている」という願望を込めて書いているが、そういえば思い出した。私は今年、大分と高知で地元の記者らとトークイベントをやったのだけれども、地元ニュースを語れば語るほど東京や今の時代が見えてきたのだ。
たとえば大分合同新聞の最近の記事を見てみよう。新型コロナを反映し「県内への移住者が過去最多ペース」(十月四日)という記事もあれば、「移住」のトラブル(村八分問題)にフォーカスした独自の連載もあった。「土葬墓地、日出町が別の場所を検討 住民提案受け、教会も前向き」(十一月十一日)は外国人との共生という、大分だけではなく「日本」の姿だ。地方紙にこそ細部が宿るのだと思う。
一方で、実は地方メディアはその地域でナンバーワンの権力でもあったりする。県民のシェア率が高い地元新聞社はテレビやラジオも抱える巨大な存在である。地方紙の中にはオーナー一族から政治家まで出し、その政治家を紙面で推しつつ、マイナスな報道は「控える」という、たとえば四国新聞のような存在もある。そのような地方でやりたい放題のメディアにも注視し、全国でオープンに皆で語っていくことも面白い試み(エンタメ)になると私は最近確信している。地方メディアにやっぱり注目です。
『芸人式 新聞の読み方』という本も出し、新聞をネタにさせたら右に出るものがいないプチ鹿島さんに、秋田魁新報、琉球新報、京都新聞を取り上げている『地方メディアの逆襲』の書評を寄稿していただきました。ぜひご覧くださいませ。