ちくま新書

個人情報管理が進む社会におけるプライバシー保護のために

デイヴィッド・ライアン『パンデミック監視社会』

PR誌「ちくま」4月号より、社会学者・阪本俊生さんの「個人情報管理が進む社会におけるプライバシー保護のために」を転載します。デイヴィッド・ライアンの最新刊『パンデミック監視社会』(ちくま新書)をプライバシーという視点から捉えなおします。ぜひご一読ください。

 新型コロナが世界中で猛威をふるうなか、日本では個人情報管理の国際的な遅れが指摘された。個人情報管理が進む国々、例えば中国は新型コロナ押さえ込みに成功したとされ、補助金支給も他の先進諸国に比べて遅いといわれた。なかでも特別定額給付金の支給の遅さや手続きの煩雑さの衝撃は大きく、マイナンバーカードの申込者は2020年に前年の4倍近くとなった。今回のコロナ禍は情報管理を前進させる起爆剤となったといえる。だがはたしてプライバシーは大丈夫なのか。
 個人情報のプライバシーのとらえ方の一つとしてデータ・ダブルがある。データ・ダブルとは個人データの断片の集積で作られる個人の分身のことだ。プライバシー研究で有名なアラン・ウェスティンが1967年にこれを論じて以降、情報技術や情報ネットワークの発達とともに活用が進み、私たちの生活はますますデータ・ダブルへの依存度を高めつつある。
 1995年の映画『ザ・インターネット』は、情報化する社会の陥穽を描いた初期の作品だ。主人公は海外旅行した際に、自らのID情報を盗まれ、犯罪者のIDに入れ替えられる。警察に逮捕された彼女は、自身の本当のIDを必死に訴えるが警察も弁護士も信じない。情報IDに間違いはないと信じているからだ。このとき彼女は自分のIDが自分自身にではなく、情報システムにあることを思い知る。
 プライバシー問題として、個人情報の漏洩、窃盗、不正使用などがよく取り上げられるが、より根深い問題もある。さらに時代を遡って考えてみよう。プライバシーをめぐる米国の初期の判例は写真関連のものが多い。写真はいうまでもなく個人のイメージを複製する。また、プライバシー法をはじめて提起したS・D・ウォーレンとL・ブランダイスの論文(1890)は、この法律の根拠付けに著作権法を用いている。複製を制約する著作権法を日常的な人びとの表現一般、すなわち外見、言明、行動にまで拡張することで、人権擁護のプライバシー法を作れるという。ここからは、プライバシーがそもそも個人の複製化、すなわちダブルの問題であったことが示唆される。
 このように、個人情報問題と昔ながらのプライバシー問題は、ともに個人のダブル生成とかかわっている。だが、両者には大きな違いもある。もともとのプライバシーでは、個人のダブル作成それ自体がプライバシー侵害の原因となった。ゴシップ記事やモデル小説がその典型だ。ところが、今日のプライバシーは、むしろ個人自身よりも、そのダブルを保護対象と見なしつつある。いま人びとは、自らの私生活の様子をSNSにアップし、防犯カメラの前を平気で通るが、情報漏洩には神経をとがらせる。かつてのプライバシーは、個人本人とその身のまわり、心や内面、身体、自宅や私室といった私的領域、親密な人びととの関係などが保護の中心であった。一方、今日のプライバシーへの関心は、むしろデータベースや情報ネットワーク内におかれる自らのダブルの保護へと向けられている。
 このようなプライバシーの転換の背景には、社会の情報システムへの依存とともに、データ・ダブルは正しいデータから作られるなら大丈夫、AIの管理は客観的で嘘がない、といった素朴なリアリズムがある。だが実際には、データ・ダブルは一握りの人びとの利益や目的に即したアルゴリズムに基づき、企業や政府等の密室で作られる。人びとはそのプロファイリングで区別され、差別され、操られもする。そして、大事件や大災害のたび、こうしたダブルへの依存は加速され、バイアスを含むデータ管理が不可逆的に進行する。だから漏洩したり、盗まれたりしなければ大丈夫というわけにはいかない。ライアンは本書でこう警鐘を鳴らす。
 ライアンは個人データの活用それ自体を否定しているのではない。むしろこうした技術が、人びとの共通善のために活用されればよい。だが実際はそうなってはいない。今日、個人は自らの情報を様々な組織や企業によって吸い上げられる一方、データ・ダブルの作り手は秘密主義なのだ。今後、個人データとその活用は公共のものとされ、人びとの手に取り戻されるべきだろう。こうしたライアンの見方に私は強い共感を覚える。