ちくま学芸文庫

法哲学者とキツネの対話

ジョセフ・ラズ『価値があるとはどのようなことか』翻訳刊行に寄せて

ジョセフ・ラズ著『価値があるとはどのようなことか』(ちくま学芸文庫)は、「価値の普遍性」という倫理学・道徳哲学上の中心問題をテーマにし、集団的アイデンティティや人権、尊厳死といった問題にも示唆するところの大きい作品です。このほど、訳者の一人である奥野久美恵氏が「価値を失うこと」について一文をお寄せくださいました。(PR誌ちくまより転載)

 本書は、ケンブリッジ大学での連続講義をもとにした小ぶりの書物だが、その内容は緻密で静かな魅力に溢れる。第1章は、星の王子さまがバラに対して抱く愛着を例にとり、個人にとっての価値が分析される。キツネが王子さまに「飼い馴らすこと」の秘密を教える、あの有名なシーンだ。『星の王子さま』を読んだ人は、前後の場面も覚えているかもしれない。王子さまはキツネと別れるとき、悲しみがあるために「何もいいことなんかない!」と否定的な言葉を投げつける。別れを計算して最初から繋がりを持たないというのも、一つの見識だろう。しかし、功利主義的思考を批判する本書の議論からすると、失うことを恐れて人やものに特別の愛着を寄せず、なにものにも責任をもたない人生には意味がない。
 本書で扱われる人生の意味よりも、無意味さの方に関心を持つ人もいるかもしれない。哲学者T・ネーゲルは、人生は無意味だという感覚のリアルさを認め、考えられる処方――世俗に漬かり切ること・大義に没頭すること・自殺すること――を批判的に検討した(‘The Absurd’)。それとは違って、本書は明示的には人生の無意味さをテーマとしていない。しかし、いったい人はどういうときに本書のような価値の問いに引きつけられるだろう――自分の抱く価値を確かめたい、あるいは否定したいと思うのは、それが損なわれたり失われたりしたときではないだろうか。価値に関する本書の考察は、価値の喪失をめぐる思索と切り離されるものではなく、読み進めれば本書の随所に喪失の理解に通じる側道がある。
 特にコロナ禍において、本書は専門家以外にも広く読まれるに値すると思われた。多くの人が大切なものを失うなかで触れること自体心痛むが、この間に数々の痛ましいニュースに接した。――ある人は、長年料理店を営んでいたが、相次ぐ自粛要請で経営が難しくなったという。地域のためにも働き、もてなしを大事にしていた。しかし、店をたたむことになり、その後、その人は店に火を放ったという。
 たとえ料理や店を持つことの善さがわからないという人であっても、失われたのは、その人にとってかけがえのない価値だったことはわかるはずだ。本書に沿っていえば、自ら選び取り育んだからこそ、別の店、別の人、別の関係で埋め合わせることはできない唯一性の事実がある。
 価値が失われたときの処方として、世俗に漬かり、喪失の事実に蓋をするのはどうか? 著者は、個々の快が増えたとしてもその合計は生の価値を高めはしないと考察する(第3章)。喪った人は生きていれば別の善さを得られるとしても、生き続けることで喪失が深まり、あるいは喪失すらも消え去ることが耐え難いかもしれない。では、大義に没頭するのは? 理念に捧げる人生も意味があろうが、あくまで価値あるものへの愛着だけに価値がある(第2章他)。また、人は、価値に関わり合える存在として尊重に値し、ふたたび意味ある目標と愛着を見出す可能性に開かれている(第3・4章)。本書が与えるのは分析的思索であって処方ではない。しかし、私たちの抱いた希望や愛したものが失われても、それが真に価値あるものだったことを確かとすることで、否定から立ち返る理由を支えている。そして、失ったその人が、愛すべきものを愛すことのできた価値ある存在なのだと、理性的な形式で伝えている。だから、私は本書を大切なものを失った人にも読んでもらいたい。
 最後に、訳文について。本書は、翻訳にかけては日本の法哲学界で右に出る者のいない森村進氏を共訳者として、専門外の読者に受け止めやすいよう心を砕いて訳したが、なにぶん原著者は難文にかけては世界の法哲学界で人後に落ちないラズ氏である。原著者の思考をたどる際、たとえ訳文の個性と合わないことがあっても、「自分で考えることを本当に知っている者にとっては何等妨害とならない」ことを願うばかりだ(三木清「軽蔑された翻訳」)。

〈追記〉本訳書が世に出て一月も経たない、2022年5月2日に、原著者のラズ教授が逝去された。訳者として哀悼の意を表する。本訳書の存在が、遺された思想と読者をつないでゆくことを願う。

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