はじめに
現代はフェイク時代に突入したとされる。昨今のメディアは、ニセ情報にいろどられた商品広告、政治家が自ら発信するフェイクニュース、世界の終わりを扇動する陰謀論など、さまざまなフェイクにあふれている。民主主義を増進するはずの自由な情報メディアの浸透が、かえって世の中の秩序を損なっているようにも見える。フェイク情報が世界の終焉を招くという指摘(インフォカリプス)も、しごく現実味を帯びてきた。このままではいけないと、誰もがうすうす気づいている分岐点に、私たちは立っている。
フェイク情報が、フェイクとしての問題性を高めているのは、私たちがそのフェイク情報を信じるからである。フェイク情報を信じて同調し、それによって扇動されてしまうからである。「フェイクに惑わされてはいけない」「フェイクを見抜こう」というスローガンはよく耳にするが、フェイク情報への直接的な対抗は容易ではない。なぜなら、巧妙なフェイクほどホントに酷似しており、加えて、私たちの信じたいという欲求を刺激するからだ。
それに私たちは、「フェイクかもしれないから何事も疑ってみよう」と言われると、何を信じていいのかわからないという当惑した気持ちを高めてしまう。フェイクの時代に生きる私たちは、この先の歩むべき方向を見失っているようでもある。
筆者は、フェイク時代にふさわしい〝道しるべ〞は、幸いなことにすでに見えていると考えている。それを提供しているのは、読者は意外に思われるかもしれないが、人間の行動や心理を生物進化の原理から説明する学問分野である。この分野は、一九九〇年代に「進化心理学」という呼称で登場し、すでに分野を超えて、心理学や脳科学の基盤として取り入れられている。今や、行動経済学を起点にして、社会科学への応用も次々に始まっている。フェイクへの対応策もその射程に入っているのだ。
進化心理学から見ると、私たち人類は〝協力上手なサル〞である。私たちの祖先は二〇〇万年以上もの間、食料の少ないアフリカの草原で暮らしていたので、食料確保のための協力を余儀なくされてきた。そのため、仲間を信じて同調する心理傾向が進化し、現代の私たちの多くにも生まれながらに備わっている。
草原で生活した時代の協力集団には「フェイクがなかった」と言ってよい。なぜなら、害のあるウソをつけば集団が混乱して皆が困るし、仲間の信頼を裏切れば集団から追い出されて路頭に迷うからである。進化心理学の原理からすると、フェイクに対応する仕組みは必要なかったがゆえに私たちに進化していないのである。
それにもかかわらず、文明の時代になって状況が一転した。信頼を裏切っても路頭に迷う恐れが減ってきたのである。すると当然ながら、協力関係のもとで育んできた信頼を悪用するフェイクが登場してくる。協力上手で信じる気持ちが先行する私たちの多くは、フェイクを疑うこともなく、まんまとだまされてしまうのだ。
近年のメディアの進展が、この状況に拍車をかけた。新聞にフェイク記事が載れば、その新聞の信頼を損ない売れなくなる。そこで新聞社は、可能な限りフェイクが生じない対策を伝統的に講じてきた。ところが、そもそも信頼とは無縁の情報メディアにフェイクニュースが出ても「面白ければ蔓延する、注目を集めれば広告収入が入る」という構造では、フェイクの蔓延を防ぎきれない。つまり今日、フェイクの起きやすい社会構造が作られてしまっている事実が見てとれる。
フェイク問題は、フェイク自体に焦点を当てても、その解決法は見えてこない。人類が協力と信頼を大切にする生き物として発展してきたこと、想像力や言語能力を身につけ、他の動物ではけっしてなしえなかった文明の確立に成功してきたことを理解しよう。すると、現代文明が人間の生物学的な本性を十分考慮することなく、野放図に情報メディアを拡大してきたことがフェイク問題の元凶だと認識できてくる。情報社会がその便利さとは裏腹に何だか居心地が悪いのも、同様に、人間の本性と社会構造のミスマッチなのである。
本書では、フェイク問題を手がかりにして、そのミスマッチの現状と可能な対応策を、数々の角度から具体的に述べていく。読者は、フェイクが人間の本性に由来する身近な問題であることに気づき、フェイクへの対応手段をみずから見出せるようになるだろう。
情報メディアにおけるフェイク問題が解消されるには、まだまだ時間がかかると思われるが、人々がフェイクに対応できる技能を磨けば、少なくともインフォカリプスに至る深刻な事態は避けられるにちがいない。うまくいけば、情報メディアが世界を救う道筋も見出せるのかもしれない。これが本書の目指すところである。