†光でもなく闇でもなく
「ルネサンス」――なんと華やいで、きらびやかな言葉だろうか。ボッティチェッリの傑作絵画《春》の情景そのままに、人間賛歌を謳歌する西欧世界に、薫々たる再生の微風がそよぎ、生命力に満ちた文化の花々が群がる星のように咲きみだれた、それは稀有な歴史的瞬間であった。
――といった具合に、一般には光輝くイメージで語られることが多いこのルネサンスという概念。厳密には、「時代」ではなく「文化運動」を指す言葉で、十九世紀の史学において提示された概念である。「再生」や「復活」を意味するフランス語(Renaissance)に由来し、西欧の十四―十六世紀に展開した多面的な知的ムーブメントであったとされる。それは西欧社会が、長い中世を脱して近代へと至る、その転換期にあたる時代が生んだ豊かな果実であった。
こうした解釈は十九世紀半ば以降およそ一世紀あまりをかけて、文化史をこえて様々な領域において展開され、総じて、近代社会の基盤を幅広く用意したポジティヴな時代相、という理解が一般化した。
やがて二十世紀も後半に差しかかると、今度はそうした光輝く印象とは対極の側面がクローズアップされるようになる。光のヴェールを一枚はがせば、そこには魔術や神秘主義が大手を振って闊歩していたし、血みどろの宗教闘争や政治的混乱も常態化していた。芸術の分野にだって、グロテスクで面妖な作品が目白押しじゃないか、と。まさに「夜のルネサンス」(rinascimento notturno)だ。
光と闇。現在では、その双方にバランスよく目配りする立場が主流だ。けれども、その両極のあいだを振り子のように揺れ動くのではなく、まったく異なる視点から、この時代、この文化相を切ってみることはできないだろうか。その、いわば第三の視点を通じて、これまでにない斬新なルネサンス像を追求してみたい。それが本書の目的だ。キーワードは「情報」である。
†一四九二年の衝撃
ルネサンスをもっとも象徴する年として、しばしば一四九二年に注目があつまる。この十五世紀も暮れ方の一年、たった十二カ月の間に、まさに驚天動地の出来事が集中しているからだ。何よりもまず、コロンブスによる新大陸の発見があった。その航海船団が出航した旧大陸のイベリア半島では、ナスル朝の最後の拠点グラナダが陥落し、レコンキスタ、すなわちキリスト教諸国家による半島のイスラム勢力の駆逐が完結した。
一方で当時の西欧における文化的先進地域イタリアに目を向けると、一都市国家ながら初期ルネサンス文化を牽引したフィレンツェでは、市政を実質的に支配した豪商メディチ家の総帥ロレンツォ(豪華公)が、四十三歳の若さで四月に没している。そして同年八月、毒殺・裏切りなんでもござれの悪名高きボルジア家出身の枢機卿が、アレクサンデル六世として教皇の位に就いた。領土的野心をむき出しにした新教皇の登場によって、長靴のかたちをした半島は、周辺諸国もろとも、たちまち戦乱の渦(「イタリア戦争」)へと巻き込まれゆくことになる……。
なるほど、たしかに時代を画するメルクマールともいえる事件がめじろおしだ。古い世界観が崩れさる轟音、新しい時代をつくるための金槌の響き、あるいは新勢力同士がしのぎをけずる剣戟のかまびすしい音が聞こえてきそうだ。
†もっとすごい一五四三年
だが世界はたった一年やそこらでがらりと変わるものではない。十五世紀末の衝撃をじっくりと咀嚼し、じゅうぶんに消化吸収するには、たっぷり半世紀あまりの時間が必要であった。たとえば自然科学の分野では、一五四三年に見るべき業績が集中している。この年、ニコラウス・コペルニクスの革命的著作『天球回転論』(De revolutionibus orbium coelestium)が出版された。いわずとしれた地動説のマニフェストである。人は、自分が暮らすこの大地が、太陽の周りをぐるぐると回転する土の塊にすぎないことを知った。
一方で、宇宙の雛型(ミクロコスモス)たる人体をめぐっては、同年、アンドレアス・ヴェサリウスの解剖学書『人体構造論』(De humani corporis fabrica)が上梓された。伝統医学ではタブー視されてきた人体解剖の世界を、緻密な図版を豊富に投入して世に知らしめた画期的著作である。こうして人は、みずからの皮膚の下に、深淵なるもうひとつの宇宙が広がっていることを知った。
その前年の一五四二年には、植物学を風靡した著作が出現している。レオンハルト・フックス『植物誌』(De Hisotia Stirpium)だ。その革新性についてはのちの章で詳しくみることにして、ここで一つ指摘しておきたいのは、同書の中に、西欧学術史上はじめて、わずか五種ではあるが新大陸産の品種が記載されたという事実である。コロンブス以来五〇年もかかって、ようやくヨーロッパの専門書の片隅に、アメリカの草木が顔をのぞかせたのだ。
自然界に関する知をドラスティックに書き換えたこうした数々の偉業は、やがて十七世紀の輝かしい「科学革命」を準備することになる。
†広がる地平
一四九二年と一五四三年 ―― この二つの象徴的な年の前後に起こった出来事をこうして並べてみるなら、ルネサンスと呼ばれる文化運動が、どれほど人々の認識の「地平」を押し広げたのかが実によくわかる。
あらためて、この時期の文化的位相を整理してみよう。まず、十四世紀から本格化する、古代ギリシア・ローマの文芸を復興しようとする流れ、いわゆる「フマニタス(人文学)研究」(Studia humanitatis)の知的ムーブメントがある。その大前提となったのが、現在とは断絶した過去の彼方に、自分たちとは異なる優れた文化が存在したという、歴史的感覚であった。こうして時間認識の地平が広がった。またコロンブスに代表される大航海時代の探検や新航路開拓は、ヨーロッパ人の地理感覚を水平方向に一挙に拡大したし、コペルニクスの地動説は、それを宇宙規模の垂直軸でやってのけた。そして一五一七年以降に本格化するマルティン・ルター(一四八三―一五四六年)らの宗教改革運動がもたらしたのは、救われる道はひとつではないという考え、すなわち心の地平の拡張であった。
†メディア革命と情報爆発の時代
これら一連の現象のいずれにも大きく関わっていたのが、十五世紀中ごろにヨハネス・グーテンベルクによって実用化された、活版印刷術である。文字ばかりでなく複雑な図版をも、高速・大量に複製することを可能にしたこの技術の登場は、現代のインターネット時代の到来にも比肩しうる、人類文化史上最大級のメディア革命を意味した。
この印刷術が、ルネサンス人の認識の「地平」の拡大にぴったりと寄り添っていったのだ。古典研究や自然学の分野はもちろん、宗教・政治闘争の場でも、この新たなメディアが縦横に駆使され、膨大な量の知識やデータが伝達・拡散されていった。
増えたのは文字とイメージばかりではない。フィジカルな「物」もまた、劇的に増大した。域外からひっきりなしに流入する珍品奇物・珍花奇葉はもとより、地中からざくざく掘り起こされる古代彫刻や古銭・メダルのたぐいにも、高い関心が集まる。さらに都市経済の発展により、ヨーロッパ市場にはさまざまな手工業製品や芸術・工芸品があふれかえった。
また、自然界についての知識が増大するにつれ、それまで単にクマとか、バラとか、宝石などの大雑把なくくりで把握されていた世界に、精密な分類の編み目がかぶせられ、個別の種が細かく切り分けられてゆく。「たとえバラという名で呼ばなくても、同じ香りがするはず……」というジュリエットの有名なセリフがあるが、もしロミオ君が博物学マニアだったら、「いや、同じバラ科でも、ガリカ・ローズとダマスク・ローズではまったく芳香が異なるし、アルバ・ローズやドッグ・ローズにもそれぞれ固有の花香があって……」と得意げに知識を開陳しだしたところを、恋人にどつかれるはめになるだろう。
要するに、「情報」が氾濫し、爆発したのだ。
†情報編集という視点からみたルネサンス
冒頭に触れたようにルネサンスについては、光と闇の双方の立場から、これまで多くの本が書かれてきた。だが、この時代を「情報」という視点に着目して通覧した概説書は、まだ数が多くない。本書では西欧の、おおよそ十五世紀から十七世紀初頭にかけての期間を、メディア革命が徐々に進展してゆく時代ととらえ、従来とはいくぶん、いや、かなり違った角度からルネサンスという文化運動/時代を語ってみたい。
それまでの世界観が大きな音をたてて崩れ去り、日々膨大な情報や新奇な知見にさらされていたこの時期に、いったいどんな知的葛藤が見られたのか。情報爆発の時代を生きた先人たちの独創的な工夫や、あるいは失敗のエピソードは、現代を生きる我々にも大いに参考になるはずだ。
そんなわけだから、本書は「ルネサンス」を文化運動と時代の双方を意味する語とゆるやかに促え、その文化史的概念の厳密な定義の問題には深入りしないし、通史的なヴィジョンの提示にもさほどこだわらない。代わりに、情報編集の工夫が際立つ領域をいくつかとりあげ、アラカルト風に語ってみたい。以下の章では、まず地図のトピックを取り上げてテーマ全体を俯瞰したのち、知の分類、印刷術のインパクト、言語の問題、記憶術、博物学の順で論じてゆく。といっても、それぞれの議論が互いに浸透し、影響を及ぼし合っていることは、お読みいただければすぐに気が付くだろう。
それではルネサンスの知の大海へと、漕ぎだすことにしよう。
【目次より】
プロローグ 情報爆発の時代
第一章 ルネサンスの地図の世界
第二章 百学連環の華麗なる円舞
第三章 印刷術の発明と本の洪水
第四章 ネオラテン文化とコモンプレイス的知の編集
第五章 記憶術とイメージの力
第六章 世界の目録化――ルネサンス博物学の世界
エピローグ 「情報編集史」の視点から見えてくる新たなルネサンス像