どこかで、電話のベルがなりつづけている。いつまでも……どこかで。 ―― 1968年の春のある朝のこと。
わたしはベッドの中で、夢うつつにそれを聞いていた。前夜、東京のサンケイ・ホールで、ある国際会議がひらかれた。わたしはその席で、夜ふけまで通訳をつとめた。それが終って、自分の家に帰り、ベッドにはいったのは、午前3時近くであった。それで、疲れてぐっすり寝こんでいたのだ。
……にわかに、電話のベルの音が、耳近くに聞こえた。自分の電話だ、と気づいた。わたしはベッドから出て、受話器をとった。窓にはすでに陽が明るい。ちょっと足もとがふらつく。
「はい、種田ですが……」われながら寝ぼけ声だ。
「モシモシ、こちらはDホテルのインフォメーション・デスクですが、朝早くからすみません」なにか、せきこんでいるような、元気な声だ。それにつられて、こちらの意識もしだいにはっきりしてくる。「実は、あのう……。いま、外人のお客さんがお着きになりまして、なにか言われるんですが、さっぱりわからないんです。こちらで、係の者が知っているかぎりのことばでおたずねしたんですが、どうしても通じないんです。それで、こちらに勤めているFさんが『種田さんなら世界中の国のことばを二十数カ国語も話すから、わかるかもしれない』といわれるんで、お電話したのです。おそれいりますが、急いでこちらまでご足労いただけませんでしょうか」
困りきって、もてあましている、という感じが伝わってくる。Fというのは、そのホテルに勤めている、わたしの友人だ。
―― お手あげしたFの顔が目に浮かぶ。それにしても、外人客を扱うホテルで、わからないことばを話す外人とは、どこの国の人だろう。よし、困っているホテルのために、そして、もっと困っているであろうその外人のために、おれの知識が役立つかどうかためしてやろう。
わたしは急いで仕たくをして、とびだした。
ホテルでは、救いの神になるかもしれないわたしを、待ちかねていた。
「知っているかぎりのことばでやってみたんですが、どうしてもだめなんです。あの方なんですが……」
マネージャーが目くばせしたロビーのソファに、不安げな老外人客がただひとり、おどおどとこちらを見ている。はじめてきた異国のホテルで、彼はことばの通じない孤独におののいているらしい。
わたしは彼の前に行った。
そしてまず、念のために英語で
“Do you understand English?”(英語はおわかりですか?)
と聞いてみた。神経質そうなその白髪の紳士は、顔をしかめ、頭を横にふった。
一見、北欧ふうの人なので、スペイン語やポルトガル語はどうせだめだろう。
“Alors, vous parlez Français?”(フランス語なら?)
老外人客は、これにも頭を横にふった。
“Sie sprechen Deutsch?”(ドイツ語をお話しですか?)
これもだめ。
“Может быть……Вы говорите по-русски?”(ロシア語ならわかっていただけると思いますが?)
老紳士は、頭を横にふるばかり。
北イタリアには、ドイツ系の住民も多いから、あるいは……と
“Lei non sara mica italiano?”(ひょっとしたらイタリアの方ではないでしょうか?)
ますますイライラして、頭の横ふりがはげしくなるばかり。
オランダ人なら、ドイツ語でも少しは反応があるはずだ。そうすると、スカンジナビアかもしれない、と考えた。
“Kanske kommer Ni från Skandinavien?”(多分、北欧の方ではないかと存じますが?)
そのスウェーデン語を聞いたとたん、老紳士はとびあがりそうに腰をうかし、救いの神にとびつきたい、とでもいうように両手を大きく広げ、満面によろこびをあふれさせたのだった。そして、堰とめられていたダムの水が、いっせいにあふれだしたように、一気にしゃべりだした。
それまでのわたしの心配と好奇心は、いっぺんにふっとんだ。老紳士が孤独からのがれ、知友を得た歓喜と安堵で語る、その音楽的リズムをもつ(中国語に似た)スウェーデン語独特の抑揚が、わたしの耳に矢のようにするどくとびこんでくる。わたしは圧倒され、おしつぶされそうだった。
コーヒーを飲もう、とホテルの喫茶室に誘ってから、わたしは老紳士の用向きをたずねた。それはごく簡単なことだった。 ―― 東京に長く住んでいるスウェーデン人の友人に会いにきたのだが、その住所を書いたものを失って困っている。調べてほしい、というのだ。
さがしているその相手は、電話帳ですぐ見つかった。わたしはそれを彼に教えた。
それから、また会いたいという彼の感謝の固い握手をうけて別れた。
わたしがホテルを出るとき、老紳士はすでに電話にしがみつき、その友人とであろう、美しいイントネーションのスウェーデン語で、夢中になって話していた。
わたしは、早く家に帰って、もうひと眠りしようと、タクシーに乗った。車に揺られてうとうとしながら、老紳士の歓喜の表情が目に浮かんだ。「ことばは……」とわたしは考えた。意思の疎通に、感情の表白に、「ことばは人間のよろこびだ」と。