ちくま新書

「専門家まかせ」はどうしていけないのか?

『リスクを考える』「第1章 リスクを知る」より

リスク・コミュニケーションの視点から「リスク」について幅広く概観する、ちくま新書6月刊『リスクを考える――「専門家まかせ」からの脱却』(吉川肇子著)より、第1章第3節「『専門家まかせ』が失敗を招く」の一部を公開します。

 

間違える専門家

 リスクについての情報は専門家が多く持っているのだから、専門家に意思決定をしてもらえばよいのではないか、と考える人もいるだろう。しかし、その専門家に頼った結果として、リスク対策が手遅れになった事例は少なくない。ここでは、パウエルらの研究(Powell et al., 1997)をもとに、有名な事例の一つである英国のBSE(いわゆる狂牛病)問題を取り上げてみよう。
 問題の発端は、1986年の感染牛の発見である。しかし、しばらくはあまりメディアの関心をひかず、1990年から報道が急増するようになった。この年に猫への感染が発覚したためである。これまでは牛の病気として捉えられていたこの感染症が、「種の壁を越える」かどうかが議論になった。つまり、種の壁を越えるのであれば、人間に感染する可能性が懸念されるからである。
 これに対して、当時の英国の専門家たちは、「人への感染のリスクはきわめて少ないか、ゼロ」という見解を示していた。そのため、政治家もこの見解を受けて「リスク・ゼロ」を主張することになる。同年、農漁食糧省(日本ならば農林水産省に相当するだろうか)のガマー大臣は、自分の四歳の娘のコーディリアとともに、イギリス産牛肉入りのハンバーガーを食べるというパフォーマンスを行って、安全性を保証した。日本でも政治家が、食品の安全性を強調したいときによく行うやり方であるが、このパフォーマンスは結果的に反発を招き、『エコノミスト』誌は、「もはや誰も農漁食糧省を信じていないことが科学的に疑いなく証明された」と揶揄している。また、大臣に対しては「ビーフ・イーター(Beef eater)」というあだ名がつけられた。
 この後、1995年には10代の若者2人が変異型ヤコブ病を発病したり(通常は、高齢になってから発病する病気である)、学校のカフェテリアで牛肉の提供を停止したりするところも出てくるようになった。このような社会の反応に対して、イギリスの食肉家畜委員会のスポークスパーソンが「科学的根拠がない」と反論を行ったり、12月には大臣と政府の専門家がジャーナリストとともに、BSE問題に対する人々の懸念は科学的根拠がないという会合を行ったりしている。しかし、この2時間の会合の最中に200以上の学校が牛肉提供の中止を決定し、逆効果になった。
 結局この会合の3か月後、すなわち1996年3月20日に、当時のドレル保健長官がBSE感染牛の肉の部位を食べることと変異型ヤコブ病発症との関連を排除できないことを議会で公式に認め、一夜にしてヨーロッパの牛肉市場が崩壊した。
 この10年にわたるリスク・コミュニケーションの失敗を振り返ってパウエルは、人々に「リスク・ゼロ」と言い続けたことの失敗だと述べている。10年の間に科学的な知見も更新されていたはずなのに、結局専門家も政治家もその知見を更新することなく、「リスク・ゼロ」という当初の判断に10年間も固執し、市民の懸念を否定するコミュニケーションのみを行ってきたのである。

繰り返される政策の失敗

 専門家が間違えれば、それに基づく政策も失敗する可能性が高い。前述のBSEの例が典型である。また、科学者の意見が分かれるときには、コスト削減につながるような評価をする科学者の意見を、政府は採用しがちである。あるいは、対策に制度の変更が必要とされる場合には同様に、変更をしなくてもよいような評価が採用されることもあるだろう。しかし、その意見が科学的に正しいという保証はなく、むしろ失敗につながってきた。
 日本における公害、薬害の歴史は、そうした政策の失敗の繰り返しであった。足尾鉱毒事件にはじまり、四大公害(水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく)や、森永ヒ素ミルク中毒事件、薬害エイズ事件など、いずれも兆候となる出来事があったり、患者が発生したりしていたにもかかわらず、ただちに対応しなかったために事態は深刻化していった。
 こういうときには、しばしば真の原因ではなく別の原因が病気の理由だと主張する専門家が登場し、そちらの意見が採用されることがある。こうなると適切な治療や有効な対策が行われないばかりか、真の原因を特定するために議論が長期にわたり、結果として被害者の数がさらに増えていく。
 最終的に真の原因が確定しても、患者に対して補償がなされなかったり、そもそも患者として認定されなかったりする。そのため、さらに裁判をする必要があり、何かしらの終結に至るまでに数十年かかることもまれではない。問題の長期化は、被害者にとっては過酷である。加えて公害の場合、第4章第2節で述べるようにスティグマ化(負の烙印)にもつながりやすい。つまり、地名に汚名がついたまま、人々の記憶に残るのである。
 このほかにも、環境リスクに対する政策の失敗もある。ダム建設や諫早湾干拓事業がその典型だが、なぜかいったん決まった計画というのは、たとえ環境リスクが明らかになったとしても、変更されたり中止されたりすることがない。もちろん、着工前には環境への影響に対する科学的評価が行われるわけだが、評価には幅があるから、そこにはやはり恣意性が入る余地もある。
 なぜ以前の決定にそこまで執着するのか、筆者には正直理解しがたいが、科学技術は日々進化しており、新しいリスクも生まれているこの状況で、柔軟に対応できないような政策を繰り返しても将来も失敗を続けるだけである。そうなってしまう一つの理由として、失敗を記録し、教訓を残す習慣がないことも関係していると考えられる。また、失敗したときの第二の施策(いわゆる「プランB」)がないようにみえることも、このことと関係しているのかもしれない。そうなることを避けるためには、組織外から、つまり市民の側から、問題を指摘したり、要望を出したりすることが重要になる。それもリスク・コミュニケーションである。

コミュニケーションに関する専門家の誤解

 本書では、行政や専門家、企業のように、リスクについての情報をより多く持っている人々と、一般市民とを対比的に論じることが多くなるが、必ずしもそれは両者が対立していることを示そうとしているわけではない。そうではなく、社会全体でリスクについての情報を共有し、議論していくことの重要性を強調するためである。
 ただ、現状では、科学的なリスク評価を伝えるべき専門家にコミュニケーションについての知識が不足しているために、問題を引き起こしている事例が少なくないと筆者は考えている。これから何度も例に出すことになるが、市民の前であたかも学校の先生のように振る舞ってしまう専門家が多いのだ。
 たとえば、化学的に合成されたものに対して、否定的な態度を示す人は少なくない。商品パッケージに「化学調味料・保存料無添加」と明示している商品もある。そういう商品を好む消費者が多いからであろう。
 しかし、専門家からみれば、たとえ化学調味料が入っていたとしても、決められた基準値の範囲内なのだから、化学調味料を入れないことでリスクが減ることはないと言いたくなってしまうようだ。しばしば、(みなさんは知らないかもしれませんが)「水も化学物質ですよ」というような、「そもそも論」を言ったりする。あるいは、「みなさんは、自然なもののほうが安全だと思っているかもしれませんが、自然なものだからといってより安全ということはないんですよ」と言ったりする。これは第2章で紹介するように、聴衆の知識や知りたいことを正しく推測していないことから起こる場合が多いと思われるが、いずれも「あなたには知識がない」ということを暗示している発言で、適切とはいえない。
 もちろん、聴衆のなかには「へえ、そうなんだ」と驚いて考えを改める人がいるかもしれない。その可能性を完全に否定するつもりはない。しかし、このような話を冒頭に言われてしまうと、聴衆の多くは「自分の知りたいことはそういうことではない」と感じて、専門家との間に心理的な距離を置いてしまうことになるだろう。この例のような、失言とも言える発言によって、聴衆がリスクについて学ぶ機会を失うことにもつながりかねないのである。
 このようなことを防ぐためにも、リスク・コミュニケーションに限らず、基本的なコミュニケーション技術についての知識が、専門家には欠かせないと筆者は考えている(第4章でより具体的に解説する)。もちろん、そうした技術について知っておくことは、非専門家である私たち一般人にとっても役立つものである。