ちくまプリマー新書

「問題」と「正解」について多くの人が勘違いしていること
『私たちはどう学んでいるのか―創発から見る認知の変化―』より本文を一部公開

教育現場ではこれまでのイメージから、 間違った学習観が広まっています。 その弊害をなくすために、認知科学の視点から 「学び」の実態を科学的に明らかにした一冊『私たちはどう学んでいるのか―創発から見る認知の変化―』(ちくまプリマー新書)より、内容を一部公開します。学校とは違って正解のない日常では、そもそも問題を「作り出す」ことから私たちは始めなければなりません。

 

 

 

問題と正解に関わる素朴理論

 教育、学習というと、多くの人の頭の中には連想的に学校でのそれが思い浮かぶ。ここにはとてもたくさんの構成要素からなる素朴理論があるように思う。その中で「問題と正解」について考えてみたい。多くの人は、

•問題は出される(既にある)

•正解がある

•正解を知っている人がいる(先生)

 というようなものを典型的な教育・学習場面だと考えるのではないだろうか。確かにそれらは学校では半ば当たり前のことになっている。先生が正解を知っている問題を出して生徒に問う、そこでの反応を見て生徒を評価するというのは学校の日常的な光景である。

 ここで認知科学的に問題というものを考えてみる。問題というのは、望ましい状態と現状が一致していないことを指す。そして問題を解決するというのは、望ましい状態と現状が一致した状態のことを指す。どうやって一致させるかというと、現状に何らかの操作を加えることでそれを行う。問題は単一の操作で解決できることは稀なので、複数の操作をうまく順序立てて行わなければならない。つまり解決過程の各時点で、いろいろな操作の中から適切なものを選び出さなければならない。これをうまくやれば解決である。

 学校で出される問題のほとんどは、望ましい状態は「……を求めよ」のような形で明確に示される。また現状は問題文の中に記述してある。そして問題解決のために使う操作は、先生が授業の中で事前に教えている。数学などはこれにピッタリと合致する。

 学校ではそれでいいのだが、現実はどうなのだろうか。こういう話を講義でするときにいつも話すエピソードがある。それはロッテの「クーリッシュ」という氷菓の開発のことだ。少し古いのだがお付き合いいただきたい。アイスクリームの市場は94年をピークに毎年落ち込んで来ていたという。そこでロッテの商品開発部の担当者は、若者数百名にインタビューをした。すると若者たちはアイスではなく、ペットボトル飲料によって夏の暑さや渇きを癒しているということが明らかになった。そこでこの担当者は、「アイスも持ち運びやすく、飲めるようにすれば良い」と考え、パウチ容器にシェーク状のアイスを入れようと考えたそうだ。ただそこから、コストの問題、アイスの温度の問題などが出てきた。これらの問題をクリアして発売に至ったのだが、初年度の売り上げは予想以上であり、当初の目標の2倍以上に引き上げられたという(この部分は2003年11月29日の朝日新聞の記事に基づいている)。

 さてここでの問題とは何だろうか。よくいるのだが、アイスの売り上げが減少していることと答えた人は間違いである。ある困った事態が発生したときに、それを問題と考える人がいるが、それは違う。それは現状である。望ましい状態は売り上げを増やすこと(減らさないこと)である。ただ、売り上げを上げたいと念じていても売り上げは上がらない。だからこのレベルで問題を捉えても解決はできない。そこで問題をより具体的で、操作が可能な問題の形に変形しなければならない。そこでこの開発者はインタビューを通して、「持ち運びやすく、飲める」アイスを開発するというゴールを作り出す。これによって問題自体を創発させているのだ。この問題の解決のためのオペレータは、パウチ容器を用いるとか、シェーク状にするなどである。もちろんそこからさらにいくつもの問題が出てくるのだが、この開発者の素晴らしいところは、問題を作り出している=創発させているという点にある。問題は初めは存在していないのだ。単に困ったなぁというのは問題ではない。自分が用いることのできる操作がうまく適用できるように、自分で作り出さなければならないのだ。また言うまでもないことだが、彼が問題を解決しようとした時には、正解を知っている教師はいない。そもそも正解なんか、誰一人わからないことが多いのだ。

 つまり学校で通用する、「問題がある」、「正解がある」、「教師がいる」という前提は成り立たない場面が多い。問題は自分で創発させなければならない、正解はあるかどうかわからない、答えを知っている人も(少なくとも周りには)いない、そうした学校とはまったく異なる場面が私たちの日常を形成している。

「基礎から応用」という素朴理論

 これと関連したもう一つの素朴概念は「基礎から応用」というものだ。基礎的なことを学習した後に、それを応用するものが用意される。ここでは単純から複雑という素朴概念も関係しているだろう。最初に単純なことを学習し、それを組み合わせてより複雑な問題にチャレンジすることがふつうだと思う。先程の言い方をすれば、基礎的なこと、単純なことは、応用や複雑な問題を解くときの操作として機能する、ということになるだろう。

 ただこれもあまり現実世界にはない話だ。それはどんな問題に直面するかが不確定だからだ。どんな問題が出てくるのか、どこらへんの問題が出てくるのか、そうしたことがわかれば、事前に操作を学習しておくことはできるだろう。しかし、現実世界ではそうしたことはわからない。だからその場で必要な操作を学ばなければならないことはとても多い。

 大学では教養課程(最近はそういう言葉を使わないが)で、3、4年でやることの基礎になることを教えるという建前になっている。しかし当然だが教養で学んだことだけでやれることなどほとんどない。そうした場合、何を学べば問題を解くのに有効か、どんな書籍や論文にあたれば有効かを自分でその場で考えなければならない。これは大学で研究をしているような私たち教員にも当てはまる。これまで学んだことですぐにわかってしまうような問題はそもそもつまらない問題が多い。だから、未知の領域にチャレンジし続けなくてはならないのだが、未知の問題なのでそれの基礎というのを事前に知ることはできない。

 学校で通用する「基礎から応用」という前提は成り立たない場面があるのだ。自分で創発させた問題の解決を目指し、自分の認知的リソース、環境のリソースを揺らぎながら探索していくしかない。



 
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