ちくま新書

国連が壊された日
『国連安保理とウクライナ侵攻』第1章より

2022年2月25日、ロシアにウクライナからの即時撤兵を求める決議案が、国連安保理に提出された。結果は、拒否権を持つロシアの反対で否決。アメリカのトーマス=グリーンフィールド国連大使は「ロシアは国連と国際秩序を壊すつもりなのだ」と嘆いた。
拒否権の誕生から機能不全に陥る現状に至るまで、国連安保理の真実を描く『国連安保理とウクライナ侵攻』より、第1章の一部を転載します。

拒否権発動
 2022年2月25日、米ニューヨークの国連本部の国連安全保障理事会では、米国が提出した決議案が採決にかけられようとしていた。前日にウクライナ北部からなだれこんだロシア軍は首都キーウ(キエフ)まで30キロあまりに迫っていた。欧米メディアは、一両日中にもキーウが陥落、ウォロディミル・ゼレンスキー政権が崩壊する恐れがあると伝えていた。
 決議案は、ロシアの行動は国連憲章や国際法違反だと非難し、ウクライナからの即時撤兵を求める内容だった。国連の最高意思決定機関である安保理はP5(=Permanent members5)と呼ばれる米、英、フランス、中国、ロシアの常任理事国五カ国と、任期2年の非常任理事国10カ国の計15カ国で構成される。決議の採択には9カ国以上の賛成が必要で、P5のうち一カ国でも反対すると否決される。このことをもって「P5は拒否権を持っている」といわれる。
 ロシアの反対は予想されていた。しかしほかの14カ国が賛成すれば、国際社会の総意としてロシアを孤立に追い込める。それがジョー・バイデン米政権の狙いだった。
 採決にあたり、米国のリンダ・トーマス=グリーンフィールド国連大使はロシアの行動を非難したうえで、「われわれはそっぽをむいてはいけない。中立の道はないのだ」と、決議案に賛成票を投じるよう求めた。ロシアのワシリー・ネベンジャ国連大使は「(米国などは)ウクライナの真の状況について話を作り出そうとしている」と反論。これに対し、当事国として会合に出席していたウクライナのセルヒー・キスリツァ国連大使は、この協議の最中にもロシアはウクライナを爆撃し、国境を越えて軍部隊を送り込んでいるのだと指摘し、「ロシア大使はこれまでに何度も侵攻はしないと言ってきた。それなのに今起きていることは何なのだ。何を信じればいいのだ」と語気を強めた。英国やフランスの国連大使も決議案に賛成を呼びかけた。
 しかし、結果は賛成11、反対1(ロシア)、棄権3で否決された。
 棄権したのは中国、インド、アラブ首長国連邦で、いずれもいたずらに非難するより、対話の道を探るべきだと主張した。中国の張軍国連大使は「ウクライナ危機は一夜のうちに起きたものでない」と強調。欧州に依然残る東西冷戦構造が原因であり、外交により解決に努めるべきだと述べた。「非難より外交を重視せよ」というのは、北朝鮮の核問題やシリア内戦で制裁強化を回避しようとする中国やロシアが使う常套語句だ。
 採決後、トーマス=グリーンフィールドはロシアに向け「あなたはこの決議案を拒否権で葬ったが、われわれの声、真実、原則、ウクライナの人々、国連憲章には拒否権を行使できないのだ」と高らかに訴えたが、負け惜しみにすぎない。採択されない決議は一片の反古でしかない。

2022年2月21日〜の動き
 2月下旬から、安保理では緊迫の度を増したウクライナ問題が連日のように討議されていた。
 21日には、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領がウクライナ東部の親ロシア派の独立を承認する大統領令に署名したことを受けて、会合が行われた。ここでトーマス=グリーンフィールドが、親ロ派承認は「プーチンのウクライナ侵攻への口実づくりだ」と述べるなど、各国から非難の声が相次いだ。これに対しネベンジャは「ロシアに対する非常に感情的な発言や断定的な評価ばかりで、状況を悪くするばかりだ」と反論した。キスリツァは「ロシアは戦争をもたらすウイルスだ。国連はクレムリンにより広げられたウイルスで病気にかかっている」と指摘。協調行動がとれない国連を暗に批判した。
 しかし事態は急変した。23日にはプーチンが独立を承認した親ロ派がロシアに軍事支援を要請したことを受け、ウクライナのドミトロ・クレバ外相が安保理議長に緊急会合の開催を求め、同日夜に会合が始まった。冒頭、国連のアントニオ・グテレス事務総長がプーチンに「ウクライナ攻撃をやめてほしい」と呼びかけた。その最中に、ロシアの軍事侵攻のニュースが入る。あちこちで悲痛な表情が見られるなか、キスリツァがネベンジャに何が起きているのか説明が必要だと詰め寄った。「スマートフォンを持っているだろう。モスクワに電話してくれ」と迫ると、ネベンジャが「今の時点で知っていることはすべて話している」と答え、外務大臣を起こすつもりはないと気色ばむ場面もあった。
 この会合で、トーマス=グリーンフィールドは25日に否決されることになる、ウクライナからの即時撤兵を求める決議案を提出する方針を表明していた。

揺らぐ国際秩序
 安保理決議は国連で唯一、法的拘束力を持つ。これを採択できるのが安保理の力の源泉といえる。総会、人権理事会、経済社会理事会など多くの国連機関が決議を採択できるが、国連憲章上、加盟国に履行の義務を負わせることができるのは安保理だけだ。
 もちろん拘束力を有する国際条約を制定し、各国に署名・批准してもらい、発効させることができれば、その条約に各国は従わねばならない。しかし条約を作るには長い時間がかかる。戦争が起きた場合にただちに停戦を求めたり、市民への非人道的な攻撃をやめさせたりすることが可能なのは、安保理による決議だけなのだ。
 第2章で詳述するが、国連はそもそも加盟国による集団安全保障を目指す国際組織だった。このため、侵略行為をやめさせるために経済制裁や武力制裁を発動できる権限を安保理に与えたのだ。東西冷戦で国連軍創設の理想は消え去ったが、冷戦後に安保理が動き始めると、侵略行為や秘密裏の核開発が認定された国家に経済制裁を科し、存在感を発揮したこともあった。
 予想されたこととはいえ、ロシアの拒否権行使によりウクライナで安保理が動ける見通しは立たなくなった。米ソ対立で機能不全に陥った東西冷戦時と同じ構造だ。しかし今回は状況が異なる。P5の一国が確信的に侵略戦争を起こしたのだ。第二次世界大戦後、世界を支えてきた国際秩序が根幹から揺らぐことになった。
 ソ連の崩壊で東西冷戦が終了し、米の一極支配ともいえる時期を経て、世界はこの10年、中ロが米国に対決的な姿勢を取る「新冷戦」と呼ばれる時代に入っていた。しかしこの間も国連や安保理は存在し続け、機能不全に陥ることがしばしばあったとはいえ、国際平和の問題に関与してきた。1945年に51カ国で創設された国連加盟国は現在193に達している。独立した国はおしなべて国連加盟を求める。それは国連に入ることが国際社会の一員となることを意味しているからだ。
 トーマス=グリーンフィールドは安保理決議の否決を受けて「ロシアは国連と国際秩序を壊すつもりなのだ」と嘆いたが、たしかにロシアのウクライナ侵攻により国連の根幹部分は事実上、壊されたといってよい。

(『国連安保理とウクライナ侵攻』「茶番と化した安保理」につづく)

【目次】 
第一章 壊された国連
1 安保理緊急会合
2 経済制裁の限界
3 人道犯罪の発覚
4 停戦の条件は何か

第二章 戦後の世界秩序とは何か
1 国連の成り立ち
2 安全保障理事会の正体
3 東西冷戦下の安保理

第三章 中国の台頭と対テロ戦争の時代
1 中国の台頭
2 一時の中ロ―英米仏協調
3 「新冷戦」時代へ

第四章 核兵器と五大国
1 ロシアは核兵器を使うのか
2 P5の核の力
3 核兵器禁止条約の誕生

第五章 これからの国連
1 国際連盟の教訓
2 失敗続けた安保理改革
3 希望

第六章 中国は台湾に侵攻するのか
1「台湾有事は五年以内」の予測も
2 安保理は動けるか
3 巻き込まれる日本

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