哲学とは?――理解の第一歩として
この一文を読みはじめた皆さんは、哲学に何らかの興味があったからこそ、この本を手にとったのでしょう。では、どのようなきっかけで哲学に興味をもったのでしょうか。難解な哲学書にたまたま出会い、その知的な雰囲気に憧れて? SF映画やSF小説の中に出てくる現実離れした、わくわくするストーリーに哲学的問題が関係していることを知って? あるいは、考えることが好きで、ふだんから自分でよく考えていることが哲学的問題の一つであることを知って? それとも、日々の生活の中で生じた切実な問題に哲学が答えを示してくれるのを期待して?
いずれにしても、皆さんはそのようなきっかけを通して哲学についての何かしらのイメージをもったことでしょう。そのイメージとは、たとえば、「深遠で難解」「抽象的で現実の生活とは無関係」「答えはなく、考える過程が重要」「生き方について教えてくれる」といったものでしょうか。
このような哲学のイメージは、世間一般で広く共有されているように思います。実際、哲学にはそれらのイメージどおりの一面があります。しかし、本当のところ哲学とはいったい何なのかを考えていくと、その実像は必ずしもそれらのイメージどおりではないことがわかります。本書を読み終えた後では、その実像がどのようなものかがわかるようになること、これが本書が目指していることの一つです。
しかし、本書を読みはじめるに当たって、何らかの道標がある方がよいでしょう。そこでここではまず、哲学とは何かを理解するその第一歩目として、哲学の「定義」のようなものをごく簡単に示すことから始めましょう。その「定義」は決して、すべての哲学者が同意するようなものではないかもしれません。しかしそれは、哲学とは何かということについての、私が共感している見方を簡潔に表現したものです。それは、「哲学とは、私たちの生の土台や前提となっている基本的なものごとの本質が何であるかを論理的に考えることである」というものです。
何だか、わかったようなわからないような「定義」ですね。そこで、「私たちの生の土台や前提となっている基本的なものごと」「本質」「論理的に考える」という三つの点について、以下でもうすこしくわしく説明しておきましょう。
私たちの生の土台や前提となっている基本的なものごととは?
まず、「私たちの生の土台や前提となっている基本的なものごと」とは何のことでしょうか。言い換えると、それは「私たちが毎日を生きていく中で身の回りに、あるいは自分自身の中にあまりにあたりまえにあるために、ふだんはふり返って考えることがないが、それなしに、あるいはそれを否定して生きていくことは想像することも難しいようなものごと」のことです。
例を挙げましょう。たとえば、私たちはふだん自分や友人が
ものごとの本質とは?
では、「基本的なものごとの本質が何であるかを考える」とはどういうことでしょうか。そもそも「本質」とは何でしょうか。「本質」という言葉は日常の中であまり使う言葉ではありませんが、言い換えれば「○○を○○たらしめているもの」、さらに平たく言えば「○○の仲間を○○の仲間としてまとめ上げ、○○を○○以外のものから区別しているもの」とでも言うことができるでしょう。つまり、人間(人)の本質であれば、それは人間(人)を人間(人)たらしめているものであり、人間(人)の仲間を人間(人)の仲間としてまとめ上げ、人間(人)を人間(人)以外のもの、たとえば猿やロボット(あるいは「人でなし」)から区別しているものです。
ふだんはふり返って考えることのない基本的なものごとに目を向けるとき、私たちは自然と「そもそも○○とは何か」「そもそも○○であるとはどういうことか」と問いかけます。たとえば、自分たちに心があるということそれ自体について考えるとき、私たちの口からは自ずと「そもそも心があるとはどういうことか」「そもそも心とは何だろうか」という問いが発せられるでしょう。このように「そもそも○○とは何なのか」「そもそも○○とはどういうことか」と考えることこそが、ものごとの本質について考えることに他なりません。
しかし、私たちはいったいどのようなときに、ものごとの本質について考えるのでしょうか。先に見たように、私たちはふだん、そのようなことをほとんど考えません。そのようなことを考えるのは、現実離れした抽象的なことを考える暇のある(?)哲学者たちだけなのではないでしょうか。
そのようなことはありません。たとえば、私たちが「胎児を中絶してよいものか」という人工妊娠中絶の問題に直面していたとしましょう。現在の日本の法律では、妊娠二二週目に入る前であれば、他の条件を満たす限りにおいて中絶が認められています。しかし、その法律で認められている期間内だとしても、「胎児もまた一人の人間なのだから、中絶は殺人になってしまうのではないか」と躊躇したとしましょう。ここで、これに対して「胎児はまだ人間とは言えないから、中絶しても構わない」と言って中絶を勧める人がいたとしたらどうでしょうか。私たちはそこで、「胎児は一人の人間と言えるのだろうか」という問いに向き合うことになるでしょう。この問いに答えるには、「そもそも人間であるとはどういうことか」というように、ものごとの本質について考えることが求められます。あるいは、人生に躓つまずいたときにも、私たちははたと立ち止まり、「そもそも人生とは何なのか」「幸福とは何なのか」といった、ものごとの本質についての問いを思い浮かべることがあるでしょう。
このように、私たちは日々の生活の中で現実的で具体的な問題に直面したとき、しばしば哲学的な問いかけをすることがあります。ものごとの本質についての哲学的問いかけは、現実離れした哲学者たちの暇つぶしではなく、私たちが現実的で具体的な問題に直面したときに、ものごとに対して距離を置いて根本から向かい合おうとする際に、現実の中から引き出され、立ち上がってくるような問いかけなのです。
ものごとに対して距離を置いて向かい合うという姿勢は、一歩引いてものごとの全体を見渡そうとする
そして、このようにものごとの全体を見渡し、ものごとを
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