ちくまプリマー新書

「正しさ」を他者と共有することは可能か
『「みんな違ってみんないい」のか?―相対主義と普遍主義の問題』(山口裕之著)書評

「正しさは人それぞれ」といって他人との関係を切り捨てるのでもなく、「真実はひとつ」といって自分と異なる考えを否定するのでもなく――相対主義と普遍主義の問題を考える『「みんな違ってみんないい」のか?』を、文筆家の綿野恵太さん(『「差別はいけない」とみんないうけれど。』『みんな政治でバカになる』)に読み解いていただきました。(PR誌「ちくま」8月号より転載)

 本書によれば、「新自由主義」は「人それぞれ」の思想である。だとしたら、私が「新自由主義」に最初に触れた曲は、SMAPの『世界に一つだけの花』になる。「みんなちがって、みんないい」というフレーズで知られる、金子みすゞの詩「私と小鳥と鈴と」が小学校の教科書に掲載されたのは一九九六年。読んでいてもおかしくないが、残念ながら記憶にない。むしろ、鮮明に覚えているのは、二〇〇三年の紅白歌合戦で大トリを務めたSMAPが歌った「No.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」だ。

 調べてみると、フェミニズムへのバックラッシュの中心にいた保守派評論家が「ジェンダーフリー、同性愛奨励の歌」と批判したそうだ。左がかった教師が生徒に歌わせて洗脳している、という彼らの批判は妄想じみている。とはいえ、新自由主義は「多様性」を尊重するように見えるので、マイノリティに親和性があるのはたしかだ。一九六八年の政治運動もネオリベに骨抜きにされたと言われる。しかし、新自由主義が実現したのは、「花屋の店先に並んだいろんな花」というような、商品の「多様性」ではないか。名前も知らない、誰も気づかないような花は「あの日」という過去にしかない。あらゆるものが商品化され、資本に包摂されたあとの光景である。

『世界に一つだけの花』は競争社会に疲れた人々を癒したとされる。しかし、いまはこう聞こえる。血みどろの競争が広がる「レッドオーシャン」ではなく、あなたの個性と創造性で未知なる市場=「ブルーオーシャン」を開拓せよ。ジェンダー、セクシャリティ、ナショナリティといったあらゆる属性もおのれの資本として活用せよ。新しい地図を片手に? しかし、YouTubeで裾野が広がったとはいえ、みずからの花を咲かせられるのは、SMAPのような一部の人しかいない。

 本書が主張するように、「どうしたら多様な個々人が抑圧されないようにしながら多数の人たちが連帯できるのか」というかつての政治運動の課題が残り続けている。「正しさは人それぞれ」(相対主義)では、人々はバラバラにされてしまう。かといって「真実は一つ」(普遍主義)にも立ち戻ることもできない。そのため本書は「正しさはそれに関わる人々が合意することで作られる」ことを示そうとする。

「正しさは文化によって異なる」(文化相対主義)とよく言われるが、文化はあくまでも人間の生物学的な本能や習性に基づくために、その違いは限りがある(第2章)。たとえば、成人男性が政治的に優位に立つ傾向はさまざまな文化で見られる。しかし、「事実としてそうである」からといって「そうすることが正しい」わけではない(自然主義的誤謬)。人間には、不正に対して怒り、助けることに喜びを感じる「道徳感情」が備わっている。だが、「道徳感情」は生物学的な本能に由来するものでしかなく、「道徳的な正しさ」はそれにかかわる人々との対話や議論を通じてつくられるべきである、と(第3章)。

 人間には「感情から一歩意識を遠ざけ、事実と論理にもとづいて思考することでなすべき行動を判断する余地」がある。本書はそこに全幅の信頼を置いているからこそ、新書の鑑というべき、とても啓蒙的・教育的な内容になっている。「人それぞれ」と思考停止せず、感情的に罵詈雑言を投げつけるのではなく、事実と論理に基づいて互いに理解し合う努力を惜しむべきではない。そのことを事実と論理によって呼びかけ、わかりやすく教えてくれる。  

 しかし、著者の独自性が最も発揮された第4章。マルクス・ガブリエルの実在論が吟味され、「正しい事実」も他者との共同作業でつくられることが示されるが、トランプ政権の報道官のような「ガラ空きの広場の写真を見て「史上最高の人出」と言い張る人たちを論理的に説得することはできない」とも記されている。前提そのものを共有しない人々に呼びかけても、事実や論理は虚しく響くだけなのか。結局は暴力で強制・排除するしかないのか。もしかしたら、それは事実や論理ではないかもしれないが、こちらの戦列に来てもらえるような言葉を探したいと私は思っている。



「みんな違ってみんないい」のか?――相対主義と普遍主義の問題

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