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結婚の社会学_序章

序章 「結婚」を疑う

1 結婚の「常識」を疑う
 有名な「なぞなぞ」から話を始めます。

ある父親が息子を車にのせて運転中、交通事故に遭いました。父親は即死、子どもは重傷を負って病院に運ばれました。しかし、手術を担当することになった外科医は子どもを見たとたん執刀を拒否し、こう言いました。「この患者は自分の息子だから、手術をすることができない」子どもと外科医の関係はどのようなものでしょうか?

 いかがでしょうか。簡単だと思う人もいるかもしれませんが、あれこれ悩んでいる人もいるのではないでしょうか。

 もしあなたが「父親が二人?」と戸惑ってしまったとすれば、出題者の意図どおりにひっかかってしまったことになります。なぞなぞの答えは、「外科医は母親」になります。

 コロンブスの卵のようななぞなぞですが、あなたが答えを導き出せなかったとすれば、それはステレオタイプの作用です。つまり、「外科医」という単語を聞いたとき、私たちの多くは条件反射的に男性をイメージしています。

 外科医に限らず、ほかにもこれは私自身が実際に陥ってしまった例ですが、「ヘビースモーカーの大学教授」と聞けば男性をイメージするなどいろいろなパターンをあげることができるでしょう。

 これは特に「ジェンダー・ステレオタイプ」と呼ばれるものです。このようなステレオタイプがわれわれの自由な思考や発想をさまたげています。ステレオタイプはいわばわれわれの想像力の可動域をせばめる作用を持っているのです。

 ただ、ここではさらに一歩踏み込んでみましょう。

 このなぞなぞの正解は、実は現代では通用しないかもしれません。もしあなたが、「答えはお父さんでもよいのでは?」と思ったのなら、実はそのとおりといえます。

 あとの章で詳しく見ていきますが、2000年代に入って以降、世界の多くの国で「同性婚」が認められています。

 現在では、先進諸国を中心に30以上の国と地域で、レズビアンカップルやゲイカップルが男女カップルとまったく同等に法律的に結婚し、子育てをしています。つまり、法律上の父親が二人いる子どもは世界中に存在しているのです。

 そういう意味では、「外科医は母親である」というなぞなぞの答えそれ自体が、男女の異性愛カップルによる婚姻制度を前提としたものとも言えます。

 つまり、この有名ななぞなぞ自体が、結婚は一対の男女によるものだというステレオタイプに縛られたものだったわけです。

†常識を疑うのが社会学
 唐突にステレオタイプについて述べましたが、本書の基本的な姿勢は、「結婚をめぐる常識を疑う」というものです。

「社会学とは何か?」に対する回答はさまざまです。簡潔に述べるのは難しいのですが、ここでは社会のあり方や人間の行動を解明するために常識を疑うのが社会学である、とざっくり定義しておきます。

 ここでいう常識とは、いわゆるマナーとか社会常識という意味ではなく、われわれの頭のなかにある当たり前や通説と言い換えられるものです。このような常識から抜け出して考え、新たな発見を目指すのが社会学だと言っておきましょう。

 ステレオタイプという概念を提唱し精緻化した、ウォルター・リップマンの議論を手がかりにしてみます。リップマンは、厳密には社会学者ではありませんが、彼が著書『世論』(原著1922)で提示したステレオタイプの議論は本書の鍵となるので、ここからスタートしたいと思います。

 リップマンは、同書で「人は見てから定義するのではなく、定義してから見るのである」と述べています。これはステレオタイプについての簡潔な説明といえます。 例えば、人が何かを「素晴らしい」と評価するとき、人は何かを見てからそれが「素晴らしい」と定義するというよりも、あらかじめ「素晴らしいものとはこういうものだ」という定義が自分のなかにあって、その定義に従って物事を見て判断しているというのです。

 屁理屈みたいに聞こえるかもしれませんが、このような反転した視点で物事を考えることが、社会や人間を考えるうえで大切だと説くのです。

 リップマンによれば、人々が事実だと思い込んでいるものの多くは、実は特定のパターンに従って構成され脚色されたものにすぎません。「われわれの置かれている場所、われわれが物を見る目の習慣に左右されて」いるのです。

 人々が世界を見る習慣を文化や集団の意識構造のレベルで枠づけているものがステレオタイプです。われわれはあらかじめ自分の頭のなかにある枠組みにしたがって物事を見たり、考えたりしています。

 いわばこの枠組みを疑って結婚や家族について考えていこうというのが本書の目的です。結婚をめぐる当たり前を疑い、われわれのステレオタイプを解体しながら、現代の家族や結婚について考えてもらおうという内容になります。

2 個人と社会の関係を問う
 もう一点、本書で重視する視点として、「個人と社会の関係を問う」ということをあげ
ておきます。

 しばしば、「社会学とは個人と社会の関係を問う学問である」と説明されることがあります。簡単にいえば、社会学はわれわれが個人的なことだと信じていることの社会的な側面を問うことを重視する学問です。

 例えば、何を美しいと思うかとか、何に怒りを感じるかといった純粋に個人的なものだと思われている感情についても、深く追求していけば、それは必ずしも生得的なものとはいえず、社会的に形成された部分が浮かび上がってきます。「個人的なもの」と「社会的なもの」の境界を問う、といってもよいでしょう。

†障害の社会モデル
 とはいえ、これだけでは具体的なイメージが湧きにくいと思います。

 ここでは社会福祉学における、障害の社会モデル(social model of disability)という概念を用いて解説してみます。障害の社会モデルは社会学由来の概念ではないのですが、本書の視点や社会学の立場を説明するうえで非常に説得力があります。

 障害の社会モデルは、障害に関する従来の理解を批判する概念として登場しました。

 従来の見方では、障害というのは「個人」に属するものであり、障害者というのは「障害を持つ者(個人)」だと理解されてきました。これが「障害の個人モデル」です。

 こうした見方への批判として登場したのが、障害というのは、まわりとの相互作用のなかで現れてくる、とする障害の社会モデルです。「障害は社会によって生み出される」という視点から、障害者の社会活動をはばんでいるのは、さまざまな身体に対応できていない社会の整備状況であるととらえるのです。

 このモデルでは、社会には多様な人がいるにもかかわらず、現状の社会がそのことを考慮してないことを問題視し、社会のほうが多様な身体に近づくべきだとします。

 例えば、車いす利用者が遭遇する「障害」は、その人の身体的な問題だけで生じているのではなく、周囲の環境によって発生していると考えることができます。車いす利用者は、階段のように立って歩くことが求められる状況で「障害」に遭遇します。

 これまでは、「立って歩けない」という身体的な制約が障害と把握されていたのですが、階段しかない施設のような社会環境が障害を作り出していると見るわけです。

 すなわち、ある身体的な特徴を持った人が当該社会で生活しようとすると、バリア(障壁)に直面してしまう現状がある。

 それに対し、さまざまな身体的特徴を持つ人がなるべくこうしたバリアを感じないでよいように社会の設計を変えていくというのが、バリアフリーの発想です。

 社会モデルと個人モデルのどちらが正しいか間違っているかという話ではありません。もちろん、個人モデル的に考えなければならない問題もあるでしょう。

 しかし、従来個人モデル一辺倒だった見方を見直し、社会モデル的に考えることの重要性を示した点に意義があるのです。

†スタートラインの平等
 この見方は、狭義の障害に限らずさまざまな社会問題を考えるうえで重要になります。

 一例をあげるなら、日本では親の離婚を経験したひとり親世帯の子どもの大学進学率は著しく低くなります。厚生労働省の調査によると、2015年の子どもの大学等進学率は、全世帯53・7%に対し、ひとり親家庭23・9%と全世帯の半分程度となっています(「ひとり親家庭等の現状について(平成27年)」)。

 統計上では、親の離婚等により子どもの大学進学率に負の影響を及ぼすことが明らかになっているのです。なぜ大学進学率が下がるのか? 教育費が高いからでしょうか?

 この問題をどう考えるべきか。

「それは仕方ないことだ。親が離婚したら経済的に苦しくなるのは当然だから」と思う人もいるでしょう。同時に、「子どもがかわいそうだから離婚はすべきではない」と考える人もいるでしょう。

 しかし、これは現在の社会を自明な前提として、責任を個人にゆだねる「個人モデル」の考え方だといえます。

 世界を見渡せば、大学の学費が無料やそれに近い国が多くあります。

 もちろん、大学進学を規定する要因には、経済的要因のほかにも親の価値観や文化的要因などさまざまなものがあるわけですが、少なくとも「お金がないなら大学に行けないのは仕方ない」という発想にはなりにくいのです。

 つまり、「お金がないこと」が大学進学のバリアになることは、普遍的な現象とはいえず、社会のあり方に関わっているわけです。

 さまざまな境遇の人が直面するバリアをなくすために「社会の側が多様な個人に近づく」という視点も必要です。というのも、個人に責任を押しつけているだけでは問題は何一つ解決しないからです。

 こういう話をすると、「ある程度は仕方ないだろう」と反論する人も多いのですが、もちろんゼロにするのが不可能であることは百も承知です。しかし、こうした問題を放置しておいてはいけないという考えには多くの人が合意するでしょう。

 社会学は少しでもスタートラインを平等に近づけることを目指すものです。

 親の人生で子の人生が決まってよいのか。「親が親なら子も子だ」などという話で終わってよいのか。

 このように問い、社会のあり方をどのように変えるべきかを考えるのです。

 障害という言葉をより広くとらえるならば、社会学は多様な個人が遭遇するさまざまな障害を社会モデル的に考え、自己責任論を批判する学問だといえます。本書で扱っていく結婚に関連した問題を考えるときにも、個人的な事柄として当然視されていることの社会的側面を問うていく必要があります。

 本書ではさまざまなテーマを扱いますが、全体に通底するのは、このような社会学的な問題意識です。

3 結婚をめぐる「常識」は変化している
 結婚をめぐる常識は日々変化しています。

 おそらく若い人たちの多くは、将来自分が結婚して、子どもを持ち、年老いたら孫の面倒を見る……といった人生をなんとなくイメージしているでしょう。

 しかし、このような人生は、現実にはもはや当たり前のものとは言えなくなっています。

 経済協力開発機構(OECD)のデータベースによれば、1970年に生まれた女性の50歳時点での無子率(子どものいない割合)で、日本は27%と先進国で最も高い数値を示しています。

 国立社会保障・人口問題研究所は、現在の出生傾向がこのまま続けば、2000年生まれの女性では、31・6%が生涯子どもを持たないと推計しています。

 当然、孫を持つという経験をする人の割合も大幅に減少すると推測されています。孫を持つか否かはおよそ50%の確率ともいわれます。このように、人生をめぐる「当たり前」は大きく変動しつつあるのです。

†結婚しない人が増えれば子どもが減るのか?
 常識を疑うために、本書では国際比較、歴史的比較、理論の三つの視点を重視します。各章はこの三点を意識して構成されています。

 ここでは、国際比較の視点からひとつ事例をみておきましょう。日本で暮らしている私たちの当たり前がけっして当たり前とはいえないことに気づくには海外の状況を知ることが一つの方法です。

 結婚に関連した事例をあげてみます。

 日本で少子化の主要因としてあげられるのは、「晩婚化」や「未婚化」です。

 たしかに日本の経年データを見れば、平均初婚年齢が上昇し、晩産化傾向が見られ、出生率も低下しています。

 結婚しない人が増えたので子どもが減っている―。

 おそらく、このような説明を聞いて疑問を覚える人はほとんどいないでしょう。疑いの余地のない「常識」です。

 しかし、「結婚しない人が増えれば子どもが減る」と言い切ることはできません。というのも、先進国のなかには、婚姻率が低下しているにもかかわらず、出生率が人口置換水準(人口が増減しない均衡した状態となる合計特殊出生率のこと)に近い数値まで回復し安定している国が多くあるからです。

 表の0―1を見てください。日本、フランス、イギリス、スウェーデン、ドイツの比較データです。


 これを見ると、まず女性の平均初婚年齢は、日本に限らず、出生率が相対的に高い他の国でも比較的高いことがわかります。第1子出生時の母親の平均年齢をみても、日本と他国にそれほど違いはありません。「晩婚化」や「晩産化」が必ずしも少子化の要因とは言えないことがわかります。

 興味深いのは、日本以外の国では、平均初婚年齢よりも第1子出生の平均年齢のほうが低いことです。なぜこのようなことになっているのか。婚外子の割合が、一つポイントになります。

 このような状況を理解するには、結婚をしないで同居するカップル、すなわち事実婚や同棲(cohabitation)の増加に注目する必要があります。

 今から10年以上前になりますが、筆者が友人の結婚式に参加したときの話です。

 新郎新婦はいわゆる「できちゃった婚」でした。新郎の父親がスピーチの際に、「この二人は正しい順番を守らずに結婚に至ってしまったわけですが……」と前置きしたうえで挨拶を述べたことを覚えています。まわりの人は特にだれも気に留めなかったように思いますが、〝正しい順番〞という言葉が妙に記憶に残りました。

「恋愛→結婚→妊娠→出産」というのが〝正しい順番〞である―。おそらく現在でも日本で暮らす多くの人はこのように思っているでしょう。

 もちろん、この〝正しい順番〞は少なからず揺らいでいます。近年では結婚より妊娠が先となる「妊娠先行型結婚」の割合が増えていて、特に10代から20代前半までの結婚では過半数を占めています。

 とはいっても、このような結婚は今でも否定的に見られがちですし、注目しておかなければならないのは、出産の時点ではほぼすべてのカップルが結婚しているということです。

「子どもは結婚している夫婦から生まれなければならない」(嫡出子でなければならない)という社会規範のことを「嫡出規範」と呼びますが、今なおこの規範が根強く存在しているといえます。

 ちなみに、法律では嫡出子/非嫡出子という区別がありますが、嫡出という言葉には「正統」という含意があるため、現在では嫡出子/非嫡出子ではなく婚内子/婚外子がよりニュートラルな用語として採用される傾向があります。

†婚外子の国際比較
 あらためて0―1の「婚外子の割合」を見てください。これは、全出生数のうち「結婚していない親から生まれる子ども」の占める割合のことです。

 1990年代以降、欧米の多くの国で家族をめぐって生じた大きな変化の一つが、婚外同棲カップルの増加でした。

 結婚を前提とした同棲だけではなく、結婚の代替としての同棲が一般化しており、欧米諸国では婚姻制度以外の共同生活を保障するさまざまな制度が確立されてきたのです。同時に、出産・子育てが婚姻制度からどんどん分離していきました。OECD Family Database によれば、2018年時点の婚外出生割合は、日本が2%程度であるのに対し、EU平均、OECD平均ともに40%を超える数値となっています。

 1990年代後半から、欧米の多くの国で同棲が「結婚の代替」として受容され、法律婚カップルと同等の生活保障を与えられることになったのです。 われわれの常識では、子どもは結婚した夫婦から生まれるものです。しかし、国際比較の視点で見てみると、結婚した夫婦から生まれる子どもがむしろ少数派になっている国さえあるのです。

 付け加えていえば、先進国を比較すると、このような国のほうが相対的に出生率が高い傾向もみられます。

 もちろん、「婚外子を増やせば出生率が上がる」などと言っているのではありません。

 私もさまざまな場で婚外子の話をする機会も多いのですが、たびたび「愛人の子どもを増やすのはちょっと……」という否定的な反応が返ってきます。

 現代社会において婚外子を「愛人の子ども」と同一視するというのは海外でも日本でも事実誤認なのですが、それだけ日本にはネガティブなイメージが強いことに驚かされます。

†婚外子の増加が意味するもの
 では、諸外国における婚外子の増加が意味するのは何か。

 それは、パートナー関係や出産をめぐる法制度を見直し、個々人に選択肢を与えることによって、家族形成が促進される可能性が高いということです。

 欧州の多くの国で、結婚とは異なる共同生活の選択肢が用意されています。結婚以外の社会的に保障されたパートナーシップ制度として日本でも有名なのがフランスのPACS(パックス)でしょう。PACSはもともと同性愛カップルの生活を保護する目的で1999年に制定されたものですが、ふたを開けてみれば男女のカップルも法律婚ではなくPACSを積極的に選択するようになりました。

 PACSの特徴の一つに、性的関係に限定されていないという点があります。つまり、同性であれ異性であれ、友だちとパートナーになることも可能なのです。

 こうなると、そもそも「なぜ友だちと家族になっちゃダメなのだろうか?」という疑問も生まれてきますね。しばしば夫婦関係も月日がたてば、「友だちのような関係が理想」と言われたりします。

 実際ある日本の調査では、理想の夫婦第一位は「親友型夫婦」という結果も出ています。

「それなら最初から友だち同士でもいいのでは?」という疑問があってもおかしくはない
でしょう(この点についてはまた本書の後半で触れていきます)。

 近年は、LGBTという概念の普及にとどまらず、アセクシュアルやアロマンティックといった、LGBTの枠組みにおさまらないさまざまなセクシュアル・マイノリティの存在が社会的に認知されてきています。

 恋愛や性的関係を持たないと結婚できず、家族を作れないという現在の社会では、こうした当事者たちは法的・社会的に認められた関係を築くことができません。「なぜ結婚には恋愛や性的関係が不可欠だとされているのだろうか? なくてもよいのでは?」という疑問が生まれても不思議ではないでしょう。

 セクシュアル・マイノリティに限った話ではありません。

 近年では、「選択的シングル」という概念も注目されています。主体的にシングルとし
て子育てを実施する女性も増えています。

 例えばオランダには、Bewust Ongehucode Moeder(主体的に非婚を選択した母親)というシングルマザーのコミュニティがあり、「子どもは欲しいけれどもパートナーはいらない」という女性たちがお互いに情報交換したり、助け合ったりする仕組みがあります。このコミュニティのサポートを得て、子育てしている母親が多くいるというのです(西村道子「世界の結婚と家族のカタチVOL. 2:多様な家族のカタチを受け止める寛容な国―オランダ」)。

「なるほど!」と思った人もいるのではないかと思います。しかし、こうした疑問がこれまで一度も生じたことがなかったとすれば、先に述べたステレオタイプの作用だと言えるでしょう。

 ますます人々の多様なニーズやジェンダー、セクシュアリティが顕在化している今日の社会では、パートナーシップや共同生活、協力関係のあり方を常識的な枠組みから離れて考えていくことが必要になっているのです。

4 あらためて「常識」を疑うことの意義とは?
 以上みてきたように、結婚の常識を疑うというのが本書に通底する問題意識となります。

 それは絶対的とされているものを相対化する作業であり、そのうえで新たな社会や生き方を構想していくものです。

 個人、あるいは社会がとらわれている常識から自由になることによって、停滞した状況を打破するための新しい思考や構想が芽生えます。

 これは学問に限らず、成功するマーケッターもそうだと思います。ステレオタイプの枠をこえることで新たなビジネスチャンスが生まれます。

 以前私は某所で、事実婚を中心とした「多様な家族」をテーマにした講演を依頼されました。小規模なものでしたが、オーディエンスは不動産関係や旅行会社、ウェディング会社の方々でした。正直、なぜこの場に自分が呼ばれてこんな話をするのか、当初は少し場違いな気がして戸惑っていました。

 しかし、講演後に企業の方々とお話ししていて気づかされました。

 不動産会社や旅行会社は、従来の結婚や「ふつうの家族」を前提としたビジネスではマーケットがどんどん縮小する状況にあるというのです。未婚化が進むなかでウェディング産業も従来のやり方では市場規模が縮小していく現状にある。

 事実婚をはじめ、同性パートナー関係やシェアハウジングといった多様化する家族や共同生活を把握することが、ビジネスの世界でも重要だというわけです。企業も従来の標準とされた家族のみをターゲットにしたビジネスの限界に気づき、多様な関係性に目を向けた取り組みを始めているのです。

 現実はすでに大きく変化しつつあるなかで、否応なく社会のしくみを転換せざるをえない状況だといえるでしょう。

                                                        *

 あらためて、常識を疑うことの意義を整理しましょう。

 常識を疑うことは、マクロなレベルでは、社会の「別のあり方」「よりよき社会」を考えるためのツールになるということです。

 そして、ミクロなレベルでは、ひとりひとりの個人が抱えている苦悩や不安の原因を知り、生き方の技法を示すという意義があると思います。

 子育てに悩んでいる個人、暴力に悩んでいる個人……。多くの人が「自分のせい」「自分だけ」と思い詰めている問題が、実は社会的な問題であるということに気づくのはきわめて大事なことであり、社会学にはそれを示す責務があると思っています。

 大学の講義でたびたび話します。「例えばもし20 年後の講義で、私が「昔は日本では同性婚は認められてなかったんだよ」と話したら、未来の学生たちが驚くかもしれない。きっとそういうことはたくさんあるはず」と。

 次の章では、「結婚の歴史」を見ていきます。

 きっと現代の視点からは驚くことが多くあると思います。結婚をめぐる常識は日々変わ
っているのです。

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