「もう本当に家族が殺されると思って……。やりたくなかった。でも、もうやるしかないと……」
2021年11月。横浜地裁402号法廷に桶谷博(仮名、当時29歳)の姿があった。証言台の前で五分刈りにした頭を深く垂れ、痩身の背中を小さく丸めて言葉を詰まらせながら嗚咽(おえつ)し、桶谷は泣きじゃくった。
住居侵入、強盗致傷、強盗未遂、窃盗……。起訴状にずらりと並べ立てられた罪名はまさしく“凶悪犯”そのものだが、あまりに桶谷の様相とはかけ離れていた。桶谷は、20年9月、横浜や川崎で連続発生した緊縛強盗の犯人として逮捕された。
侵入強盗や窃盗を繰り返し、計198万円を不正に引き出したとされる桶谷の身には、わずか2カ月のうちに、壮絶な出来事が起きていた。
†「高収入」「グレーバイト」
「高収入バイトを探しました。車を持っているので「運び」の仕事はないかなと思って検索しました」
ほどなくツイッターを通じて「運び」のバイトを紹介された。ただ、その仕事を引き受けるには、運送する物品が紛失・破損した場合のために30万円の保証金が必要だという。不安もあったが、報酬は800万円と聞き、妻に黙って生活費の一部を流用し保証金30万円を工面した。
「運びのバイトなら、人を傷つけずにやれると思いました」
実際に桶谷は運送したものの、中身はゴミだった。報酬はいつになっても支払われず、仕事を紹介してきた男との連絡は途絶えた。気付いたときには、保証金の30万円を騙し取られていた。
桶谷は焦った。妻に黙って生活費から流用した30万円をとにかく早急に穴埋めしなければ ―― 。
桶谷はツイッターで「高収入」「グレーバイト」を躍起になって検索した。「アカサカ」と「テラサキ」を名乗る指示役の男2人とSNSを介して知り合うまでに、時間はかからなかった。2人との連絡には秘匿性の高いメッセージアプリ「テレグラム」が使われた。
手っ取り早く稼がなければならない。報酬は50万円欲しいと伝えると、アカサカは言った。
「では、タタキ(強盗)をやれ」
このとき桶谷は既に、アカサカの求めに応じて、本名や自宅の住所、その外観の写真を送っていた。さらにツイッターの画像を過去に遡って探られたことで、妻や子どもの顔写真までアカサカたちの手に渡っていた。
「タタキはできない」。拒否した桶谷にアカサカは告げた。
「家族を殺すぞ」
そのメッセージには、家族と一緒に撮った写真が添えられていた。
「タタキ(強盗)をやってもらう。1件100万円の報酬だ。お前とはもう1時間以上話した。(犯行の)話を聞いたからには、少なくとも1件はやってもらう」
2020年9月7日。氏名不詳のアカサカから告げられた仕事内容に、桶谷の焦燥は頂点に達した。
すでに個人情報は何もかも知られている。借金返済のためにも早く仕事をこなさなければならない。しかし人を傷つけることなどできない……。
拒否した桶谷をアカサカは執拗に追い詰めた。「もう遅い。俺たちはお前の家族をいつでも殺せるんだ。警察の中にも俺たちの仲間がいる。通報したらどうなるか分かっているんだろうな」。繰り返し脅し、追い詰め、桶谷に決断を迫った。
†横浜事件
9月10日と11日は、アカサカらから指示されて合流した共犯者、木暮虎夫(仮名、当時22歳)と行動を共にするよう言われた。
その木暮は、「ワタベ」と名乗るよう指示されていた。指示役の男たちは桶谷に偽名として「コジマ」を騙(かた)らせていた。アカサカやタカヤマは「2人そろって、お笑いコンビ“アンジャッシュ”だ」と言って笑い合っていたという。
「横浜事件」。捜査関係者がそう呼ぶ緊縛強盗事件を、11日の午後、2人は横浜市港北区で起こすことになる。
指示役の男は、事細かく強盗の手口を告げてきた。
「独り暮らしの高齢女性の一戸建て住宅を狙う。火災報知機の点検業者を装って家に侵入しろ。家人の口をタオルでふさげ。結束バンドで手足を縛り、現金とキャッシュカードを奪え。脅してカードのアンバン(暗証番号)を聞き出すんだ」
さらに、指示は犯行隠蔽の手段にも及んでいた。
「お前らが逃走した直後に、事前に用意した偽の警察官を家に突入させる。その偽警察官が家人から被害の状況を聞いて、被害届を提出させる。家人は捜査が始まると思い込んで、110番通報はしない。こうしておけば、事件は当面発覚しないんだ」
2020年9月11日の昼下がり。横浜市港北区内の鶴見川沿いに広がる閑静な住宅街に、桶谷はいた。タオルや軍手を買うように指示され、用意して現地に向かった。指示された番地に着いたが、ターゲットとされる家の表札が見あたらない。指示役は具体的な個人宅を名指ししていた。歩き回った末にようやく、入り組んだ細街路の一画に、指示された2階建ての民家を見つけた。
桶谷は前日から、ワタベと名乗るよう指示された木暮と行動を共にしていた。2人の耳には、テレグラムで常時通話状態となっているマイク付きイヤホンがねじ込まれている。アカサカとテラサキが入れ代わり立ち代わり、細かく指示を飛ばしていた。
「コジマ(桶谷)がインターホンを押して「火災報知機の点検」と言って先に入れ。後からワタベ(木暮)が入れ」
†91歳老女への凶行
家人の女性(当時91歳)は最初、「また今度にしてくれ」と拒んだ。あと10分ほどしたら通院のためにヘルパーが家にやって来るためだった。ところが、桶谷から「すぐに終わるから」と強く言われ、不審に思った。点検の道具や書類などを持っていなかったからだ。だが2人が「近所の家も点検している」などと言って近隣住民の実在する名前を挙げたため、怪しみながらも家に入れてしまった。
「外気を遮断する必要がある」
2人の男たちは口々に言い突然、家中の窓を閉めて回った。若い男が家人の高齢女性に急接近してきた。眼鏡の若い男だ。男は女性を一気に押さえ付けた。高齢女性は、そのときになってようやく気付いた。ニュースでやっていた強盗だ。そう思った時にはすぐ後ろにもう1人の男が立っていた。後ろ手に縛られ、廊下にへたり込んだ。
女性は足に人工関節を入れているため、床に座り込むと自力で立つことは難しく、逃げることもままならない。男らが家中の戸締まりを確認して回っていたのは、そのためか。叫んでも、外まで声は届かない。
男は言った。
「キャッシュカードの暗証番号を教えろ」。女性が拒むと、男は怒りもあらわに「家に火を付けるぞ!」と脅してきた。それでも答えないと、男は台所から包丁を持ち出してきて突き付けた。「アンバン(暗証番号)教えろ!」
女性は叫んだ。
「殺すなら、殺せ!」
そのとき家のインターホンが鳴った。電話も鳴った。予定通り訪問してきたヘルパーが家の異変に気付いたのだ。
……(続きは本書にて)……