チェルノブィリ原子力発電所、一九八六年四月二六日午前一時二三分
いかなる国の、いかなる炉型の原子炉にとっても、なんらかの事情で外部からの電力供給が途絶え、冷却材循環ポンプが停止し、冷却不全により炉が過熱・暴走する事態はあらかじめ備えておかなければならない非常事態である。チェルノブィリ原子力発電所でも、当然、こうした電源喪失に備え、緊急用のディーゼル発電機を装備し、かつ、その起動(三〇秒から三分間とされる)までの間をつなぐためにタービンの慣性回転を利用した電力供給の仕組みを設置していた。しかし、チェルノブィリ原発四号炉のこのシステムの作動試験は、ウクライナにおける電力需要の逼迫から、一九八三年末の原子炉運転開始から二年以上もの間延期されていた。
ようやく、試験が実施されることになった一九八六年四月二五日当日にも、電力供給継続の要請がキエフから届き、試験開始は深夜にずれ込んだ。原発の副技師長アナトーリー・ジャートロフをリーダーに、若いレオニード・トプトゥノーフ、アレクサンドル・アキーモフの三名がおもに原子炉の運転に当たった。彼らは段階的に出力を絞り、いったん、七二〇メガワットで安定させたが、ジャートロフは、アキーモフの反対を押し切り、さらに低下させるよう命じた。炉の出力は低下を続け、制御不能となった(おそらくクセノン135の大量発生による。クセノン135は核分裂にともない生成する物質でありながら、それ自身中性子を吸収し、核分裂連鎖反応を鈍らせる)。
そのまま炉を安全に停止させる選択肢もあったが、ジャートロフは試験の継続を選択、トプトゥノーフの反対を押し切って、相当数の制御棒を上げさせた。一時、原子炉は出力二〇〇メガワットで安定した。原子炉からタービンへの蒸気の流路が閉じられ、タービンの慣性回転を利用した電源確保という試験目的は達成されつつあるように思われた。制御棒が下げられ、原子炉は停止されようとしていた。しかし、このとき、炉内では冷却水の流速が鈍り、水温が急上昇し、蒸気が増えていた。蒸気量が増えると水への中性子の吸収が減り、核分裂反応が促進される。これに加え、一斉に炉内に降下された制御棒(BBCの再現フィルムによれば、高熱で歪み、うまく炉に挿入できなかったとのことである)が炉心底部の冷却水を押しのけ、さらに炉は冷却不全に陥った。
午前一時二三分、チェルノブィリ四号炉は暴走、蒸気爆発を起こし、原子炉建屋を破壊した。さらに、瓦礫や黒鉛が辺りに撒き散らされて火災が発生した。爆発とその後の火災により、一四〇〇万テラベクレル(ベクレルとは放射性物質内で一秒間に崩壊する原子核の数を表す。放射能の強さを示す単位である)の放射能をもつ放射性物質が大気中に放出され、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの近接地域に深刻な放射能汚染をもたらし、さらにそのうちいくつかの核種は風に乗って北半球全域に拡散した。プリピャチ市など原発に近い地域の住民は移住を余儀なくされ、広大な土地が無人の地となった。公式記録に見られる死者は、事故時に相当量の放射線に被曝したトプトゥノーフ、アキーモフ含め原発職員等三三名であるが、長期・広域にわたるその健康被害は計り知れない。
チェルノブィリ原発事故の初期対応のため、翌日午前三時までに動員された人員は、消防士九三名(うち、直接消火活動に従事したもの六九名)、施設保全従事者一三六名、政府委員会派遣の処理班と専門家四九一名であった。初期対応に動員されたこれらのひとびとのうち原発構内で作業したもの、総計五六一名が大量の放射線に被曝した。危険を顧みず事故の処理と放射線防護に取り組んだ処理班員(三〇〜五〇歳の壮年男子が九〇%)はロシア語で「リクヴィダートル(ликвидатор)」(直訳すると「廃絶者」「清算人」)と呼ばれ、現在のロシア社会で英雄として尊敬されている。二〇〇〇年までにその数はのべ一七万九九九三名に上った。一九八六年における彼らの年間平均被曝線量は一六五ミリシーベルト(現在、一般公衆の被曝線量限度は年間一ミリシーベルトである)であった。全体の一五%には達しなかったものの、二五〇ミリシーベルト以上の深刻な被曝を受けたものも多くいた。
ヴァレリー・レガーソフ「わたしの責務はそのことについて語ること」
政府調査委員会の一員として、事故の当日に現地に派遣されたヴァレリー・レガーソフ原子力研究所第一副所長は、線量計も満足に揃っていないなか、事故の全容解明と放射線防護対策づくりに、文字通り秋霜烈日の日々を送る。しかし、ニコライ・ルィシコフ首相を長とするソ連邦共産党中央委員会政治局「作業グループ」が組織され、強力な権限をもってチェルノブィリ原発事故対策を差配するようになると、レガーソフらの政府調査委員会はその単なる管理機構の一環となった。
高い使命感をもって激務をこなしていたレガーソフは隠蔽と弥縫策に終始しようとする政府の姿勢に深く失望し、ソ連の原子力政策そのものへの疑問を深めてゆく。彼は、混乱を極めるチェルノブィリ原発事故現場での見聞、ソ連第一級の原子力専門家としての自分の来し方、そしてソ連原子力開発の問題点を記した「手記」を執筆する。手記は一九八八年五月二〇日付のソ連邦共産党中央機関紙『プラウダ』に、「わたしの責務はそのことについて語ること」との題名のもと、抄録のかたちで掲載された。レガーソフ自身は、それに先立つ四月二七日、すなわち、チェルノブィリ原発事故から二年と一日を経過した日、自宅アパートで首を吊って死んでいるのが発見されていた。
「手記」のなかでレガーソフは原子力開発当事者たちの、現実に対する無感覚を指摘する。彼の周囲の専門家の間で、現実に操業中のあれこれの原子炉の質、燃料の質など技術的な問題が議論されることはめったになかった。原子力発電を円滑にコントロールするための管理システム、問題診断システムの構築も軽視されていた。彼によれば、チェルノブィリ原発で用いられていた炉型、いわゆる黒鉛チャンネル炉は燃料、黒鉛、ジルコニウム、水を大量に消費するなど経済性が低く、緊急時に制御棒を操作できるのは作業員だけという防護システムが不完全な炉であった。そして、「頻繁に発生する最重要なパイプからの漏洩、黒鉛チャンネル炉の作業チャンネルの覆いから出るゲート弁の作動不調―こうしたことが毎年起こっていた」のであった。
ロシアのウクライナ侵攻と原子力発電所
史上最大級の〝核の災害〞であったチェルノブィリ原発事故は、四十数年にわたるソ連の核開発の〝ひとつの〞帰結であった。しかし、残念ながら、ソ連の核開発が抱えていた問題がすべてチェルノブィリで終焉を迎えたわけではなかった。二〇二二年二月二四日にはじまったロシアによるウクライナへの軍事侵攻にあたり、プーチン大統領は、ロシアがその多くをソ連から引き継いだ核兵器の使用をちらつかせた。人類はヒロシマ、ナガサキに続く第三の〝被爆地・ヒバクシャ〞の登場を真剣に危惧するようになった。
また、三月四日午後(現地時間)、ウクライナに侵攻したロシア軍により、欧州最大規模のザポロージェ原子力発電所が制圧された。多くの放射性廃棄物が貯蔵されている旧チェルノブィリ原発構内もロシア軍に一時占拠された。占領者による原子炉や使用済み核燃料冷却= 貯蔵施設などの破壊や粗雑な扱いによる大量の放射性物質の飛散、兵士・住民の大量被ばくが真剣に危惧されるにいたった。こうして、人類はチェルノブィリ原発事故、福島第一原発事故に続く第三の巨大原発災害を危惧するようになった。
人類史の中の核開発
核兵器の存在は長期にわたり人類を脅かし、そして、今も脅かし続けている人類史上最大の脅威、少なくともそのひとつである。冷戦期米ソ間の核軍拡競争のなかで、核爆弾・核弾頭の研究= 開発= 製造にはおびただしい量の研究開発資金、研究開発資源が投じられた。こうして一時は一〇万発を超えるにいたった核弾頭を敵に向かって効果的に投下するためのミサイルや原子力潜水艦などの兵器群、コンピュータを要とする戦闘指揮= 管制=通信= 諜報の手段の構築も強力に進められた。
国家が必要とする、おうおうにして軍事色が強い科学研究には未曽有の規模の資金が投ぜられ、戦後世界の科学研究は一面では大きく〝発展〞し、他面では大きく偏向されていった。破滅的な核軍拡競争の狂気は一九六〇年代後半にはいくぶんか緩和され、二〇世紀の終わりにはソ連の解体により東西冷戦が終結したようにも思えたが、人類が核兵器の脅威から解放されることはついになかった。
一九五〇年代、世界中で高まった核軍拡を憂慮する声に〝応え〞、かつ、世界の市民に自国の科学力をアピールすべく、米ソ両国は〝平和的な〞開発競争も展開した。物理学者・社会思想家の武谷三男は「世界の原子力の空気が一変した」と評した。こうして期待を背負って登場した原子力発電は、やがて、東西冷戦の一定の〝緊張緩和〞(デタント)を経て、米ソ両国において経済成長の不可欠な要素となってゆく。原子力発電については、登場直後から少なくない識者がその安全性に対して危惧を表明していたが、不幸にして警告は現実となり、人類はスリーマイル島原発事故、チェルノブィリ原発事故、そして福島第一原発事故を迎えることとなった。
軍民双方の核開発で〝主役〞を演じたのは、疑いなく、米ソ両国政府であった。アメリカの核開発については、多くの研究がなされ、その概要には広範な読者が日本語で接することができるようになっているが、もう一方の〝主役〞ソ連のそれについては、残念ながら、通史さえ欠けているのが現状である。そこで、本書の課題は、この機に、ソ連という歴史的存在の国際的・政治的・経済的諸条件との関連においてその軍民両方における核開発過程を改めて辿ることにある。
本書ではソ連最初期の核兵器開発計画(第一章)、アメリカとの核軍拡競争に勝利するための核兵器製造施設群の壮大な展開、ウラン資源開発、核弾頭運搬手段としてのミサイルや原子力潜水艦の開発、核戦略の展開(第二章)、放射能の脅威へのソヴィエト科学者の対応(第三章)、ソ連が先鞭をつけた原子力平和利用の内実(第四章)、深刻な経済停滞に根ざした一九六〇年代後半からの原子力平和利用の展開(第五章)、ソ連がその〝同盟〞諸国との間に展開した原子力分野における〝国際協力〞の実態(第六章)、ソ連核開発四十数年の帰結とその後(第七章)と、ほぼ通史的に軍民双方におけるソ連の核開発の道程を辿ることになる。