ちくま新書

神話と歴史から古代ケルトの実像に迫る
『ケルトの世界』はじめに

日本でも高い人気を誇るケルト文化。しかし、そうしたイメージとは裏腹に、ケルトをめぐってはさまざまな論争が繰り広げられてきました。かれらはいったい何者だったのか、神話と歴史学を交差させその実像に迫る『ケルトの世界――神話と歴史のあいだ』より「まえがき」を公開します。

 ケルトと聞いて、何を連想するだろうか。エンヤなどに代表されるいわゆるケルト音楽だろうか、『ケルズの書』などのいわゆるケルト美術だろうか、妖精物語だろうか。近年ではゲームやアニメなどのサブカルチャーにケルト神話由来のキャラクターが登場することも多いので、それらを思い浮かべる人もいるかもしれない。
 ケルト人は、近年論争のあるテーマで、じつは学界でもケルト人をどう捉えるかについて十分な合意があるわけではない。イギリスでも、ケルトのイメージは時代によりまちまちであり、たとえば、『ローマ帝国衰亡史』の著者として知られる、18世紀の歴史家エドワード・ギボン(1737-94)は、1764年の日記の中でゲルマンの神話・伝説集『エッダ』を「古代ケルト人の聖なる書物」と呼んでいる。19世紀には、シャーロック・ホームズが「マスグレーブ家の儀式」(1893年)で「彼女は激しく激情的なウェールズの血筋」と述べており、20世紀にも、イアン・フレミング(1908-64)の『死ぬのは奴らだ』(1954年)では、ニューヨークを訪れたスコットランド出身の諜報員007ことジェームズ・ボンドが摩天楼を見て、ケルトのゴシック建築のようだという感想を抱く(なお、1973年公開のロジャー・ムーア主演の映画ではこのシーンはカットされている)。
 わが国では、20世紀の終わり、音楽を中心に世界的な「ケルト・ブーム」が起こったときに、ケルト関連の本の出版、ケルト美術展の開催などにより、ケルトの知名度も高まったものの、時代も地域も遠く隔たっているせいか、ストーンヘンジがケルト人の遺跡であるとか、ケルト人は文字を持っていなかった、といった18-19世紀のようなケルト人のイメージもいまだに根強く流布しているように感じられる。ちなみにストーンヘンジはおそらくケルト人が歴史に現れるよりも2000年近く前に建造されたものと推定されている。
 そこで、本書では、特に人々のイメージと学術的な知見との齟齬が大きい点を中心に、歴史を題材に古代のケルト人の実相を探っていこうと思う。その際に、ケルトをめぐる論争に伴い、ケルト人に関してさまざまな仮説が提示されてきているが、本書では、あえてそれらを教科書的に概説していくのではなく、日本でも比較的なじみ深いと思われるアイルランドの神話を取っ掛かりとして、それに関連する歴史的事項や背景を取り上げながら、ケルト人とその社会、文化、風俗などについてみていくことにしよう。このようなやり方には批判もあるだろうが、神話や伝説を出発点に置くことで、改めて古代のケルト人と、アイルランドなど「ケルト的辺境」のケルト文化との関係を再考することにもつながるのではないかと思われるからである。
 本書のテーマであるケルト人は、ギリシア語「ケルトイ」に由来する。この言葉は、紀元前5世紀の、「歴史の父」ヘロドトスによれば、イストロス川(現ドナウ川)上流に住む人々のことであったが、多くの場合、近代的な意味での民族ではなく、ギリシアから見て西方、すなわち中央ヨーロッパから西ヨーロッパの人々を漠然と指していたようである。たとえば、紀元前4世紀の著作家エポロスは、世界を四つに分ける場合、東方をインド人、南方をエティオピア人、北方をスキュタイ人、そして西方をケルト人に当てていた、と伝えられる。
 ギリシア・ローマの古典文献の記述に基づいて、長らくこのケルト人は、ローマ以前にヨーロッパの大部分に居住していた人々とみなされてきた。16-17世紀にかけては、アイルランド語やウェールズ語など、ブリテン諸島の言語が同じグループに属するもので、元をたどればケルト人の言語に由来する、という考えが現れた。やがて、19世紀になると、ケルト人は考古学と結びつけられるようになった。
 デンマーク人のトムセン(1788-1865)は、先史時代を石器時代、青銅器時代、鉄器代に分ける三時代区分法を提唱した。この三時代区分法は、先史時代の最も基本的な編年として次第に普及していき、現在に至っている。しかし、トムセンの説は、単なる編年法ではなく、それぞれの時代はそれぞれ特定の民族によって形成されると説明している点など、現代の三時代区分の理解とは異なる点も含んでおり、ケルト人もこの中に組み込まれていった。
 1850年代には、ケルト人を青銅器時代に区分する説もあったが、スウェーデン人のハンス・ヒルデブラント(1842-1913)が鉄器時代を二つの時期に分け、1846年に発掘されたオーストリアの遺跡ハルシュタットと1858年に発掘されたスイスの遺跡ラ・テーヌにちなみ、前期にハルシュタット文化、後期にラ・テーヌ文化の名を与えると、ケルト人を鉄器時代の人々として認識する見解が広まっていった。また、インド=ヨーロッパ語族の比較言語学が確立されてくるのも同時期のことであり、19世紀前半にケルト語はインド=ヨーロッパ語族の中に位置づけられるようになった。
 こうして、ケルト人とは、インド=ヨーロッパ語族のケルト語派の言語を用いる、ギリシア語で「ケルトイ」、ラテン語で「ガッリ(ガリア人)」などと呼ばれた人々のことで、もともとはドナウ川上流域に居住しており、紀元前800年頃、独自の文化を確立した人々であるとされるようになった。そして、ケルト人は、その後東西に勢力を拡大し、紀元前三世紀頃にはイベリア半島やブリテン諸島からアナトリア半島に至る、イタリア、バルカン半島、北欧を除くヨーロッパのほぼ全域に居住するようになる。
 紀元前3世紀後半からローマが勢力を拡大してくると、次第にローマによって征服され、1世紀にはアイルランドやスコットランドなど一部地域を除いてローマ帝国の支配下に入った。5世紀、ローマ軍がブリテン島から撤退すると、ブリテン島全域がケルト人の勢力下に戻ったが、すぐにサクソン族が到来し、イングランドはアングロ=サクソンの手に落ちた。一部のケルト人はブリテン島からブルターニュ半島へ渡り、こうして中世にはケルト人の勢力範囲はアイルランド、スコットランド、マン島、ウェールズ、コーンウォール、ブルターニュとなった。そしてこれらのいわゆる「ケルト的辺境」の人々が古代ケルト文化の継承者とみなされ、中世以降も「ケルト的辺境」において伝えられてきたというパラダイムが形成されてきた。これが20世紀半ばまでにケルト人についての定説となった考え方である。
 しかし、20世紀終わりからこのようなケルト像に疑念が呈されるようになり、従来の説の擁護派と否定派によって論争が戦わされるようになった。さらに近年では遺伝子研究がケルト研究にも応用されることで、ケルトの捉え方は大きく変化してきているのである。

 次に本書の構成について、簡単に述べておこう。本書の主要なテーマは古代ケルト人の実像に迫ることであるが、まったく先入観のないいわば白紙の状態でケルト人と向かい合うことは困難であり、良くも悪くも先人たちの業績から影響を受けることは免れない。そこでまず、ケルト人をどう捉えるべきか、ケルト人をどのように位置づけるべきか、といった問題を、⑴近年のケルトをめぐる議論、⑵ギリシア・ローマの古典文献と中世のアイルランドやウェールズの神話との関係、⑶ケルトとインド=ヨーロッパ語族との関係、という三点を軸にみていく。そのうえで、古代ケルト社会の諸相について、その実態を検討し、最後に先に触れた通説が生まれる一因となったロマンティックなケルト・イメージの起源を論じる。
 最初の三章は、主としてケルトの位置づけに関わる部分である。まず第1章では、近年のケルトをめぐる問題について、神話に描かれるアイルランド人の起源にまつわる物語と、ギリシア・ローマの古典文献の記述、さらに考古学的知見や近年の分子生物学を援用した遺伝子研究などを絡めながら考察していく。続く第2章では、ケルトの論争の中でも特に問題となっているブリテン諸島の人々と大陸のケルト人との関係を、古典文献の記述とアイルランドの神話から考えてみたい。また、第3章では、ケルト人の文化に残るインド=ヨーロッパ的な要素を、アイルランドの伝説上の英雄クー・フリンの生涯を例に取って紹介しながら、インド=ヨーロッパ語族とケルトの関係についてみていく。
 第4章と第5章は、少し趣を変え、ギリシア・ローマの古典文献と、ケルト語碑文や考古学的遺物などケルト人自身が残した史料を中心に、古代ケルト社会の実態について検討してみたい。そして第6章では、アイルランド神話の中からフィアナ物語を取り上げ、傭兵活動を中心に再度古代ケルト社会とのかかわりを確認するとともに、古代ケルト社会についての補足を行い、先に触れた通説が生まれる一因となったロマンティックなケルト・イメージの起源を18世紀の作家マクファーソンを中心に論じる。最後に、本書の議論を通して、改めてケルトがどのように捉えられるのかを示し、締めくくることとしたい。
 

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