今、なぜ消費社会について考えなければならないのだろうか。
その答えは、まずは自明にみえる。私たちは日々、消費を積み重ねながら暮らしている。本を買い、レストランに行き、マンションを買うといった直接的な消費だけではない。水道の蛇口をひねり、灯りをつけるといった本当は料金が発生していることがあまり意識されない消費もある。さらにはテレビをみて、ネットを利用するといった「広告」や「課金」などのかたちで他の誰かがおこなう支払いに便乗した間接的な「消費」も含めれば、私たちが購買活動にかかわらない日はないといっても過言ではない。
こうして当たり前のようにくりかえされている消費、またそれが積み重ねられることでつくられた消費社会に対して、ただし近年では批判が手厳しい。
ひとつに消費社会が非難されるのは、それが所得の「格差」と深くかかわり成立していると考えられているからである。ある商品を買える者もいれば、買えない者もいる。それを決めるのはたしかに保有する金銭の量なのだが、消費社会はそうした貨幣所持にかかわる「格差」を前提に維持され、またその拡大を助長していると疑われている。
そしてだからこそ消費、また消費社会は批判される。格差をできるだけ減らし、消費にかかわる「不公平」が生じないようにするために、福祉国家を拡大し育児や教育などの基礎的なサービス(ベーシックアセットや、ベーシックサービスを充実させることや、究極的には「平等」な配分を実現するためのコミュニズムが唱えられる。消費社会は所得の「格差」を前提として成り立つ社会とみなされ、そのためにそうした社会、あるいはそれを支える資本主義を変革することが目指されているのである。
とはいえ社会体制そのものを変えることは、相当に困難にちがいない。だからこそ代わりに、個人のできる範囲で消費のやり方を変えることを説く者も多い。この場合、他人の目を意識した「不必要」な(とみられる)消費を減らし、自分に似合った、本当に良いとされるモノ、さらには具体的な形を取らない経験にお金を費やすことが大切であると自己啓発的に説かれていくのである。
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もちろん一方でいまではエシカル消費の流行の波に乗り、エコであることをうたう洗剤や食品も増加している。ただしこうした変化が、消費社会を全体として変えたかどうかについては疑問が残る。たとえば本書で後に「リバウンド効果」として確認するように、エコな商品の購買は、さらなる消費のためのアリバイとなることがある。ハイブリッド車や電気自動車をあらたに製造すると、ガソリン車に乗り続けるよりもエネルギーがかかるだけではなく、それを買って安心してより多く乗り始めることで二酸化炭素の排出量を大きくする場合があることさえ確かめられているのである。
効果が不確かであるにもかかわらず、次々と異なる対象がもてはやされるという意味では、むしろこうした乗り越えの試みそのものが消費社会の流行であった可能性が高い。環境に優しい商品だけではなく、「ロハス」や「シェア」、「ていねいな暮らし」や「ミニマリスト」的暮らしなどあらたなブームが起こり、新規な消費の対象が紹介されてきた。しかし社会総体を変える気配もないままに、それらはあらたに現れるブームに取って代わられていく。その意味でそうしたブームは他の人に自分の道徳的、感性的「正しさ」をみせびらかすモードとして、消費社会を延命することに仕えてきたのではないかという疑いが合理的に残るのである。
こうしてある種の論者の非難にかかわらず消費社会が人びとに受け入れられてきたという事実上の問題だけではなく、消費社会を超えるという提案が望ましい社会を約束しているのかという権利上の問題もある。消費社会に対する批判は、人びとが同じような道徳的関心を持ち、平等に暮らしている未来を描いてみせる。しかしそうした社会が消費社会以上に本当に望ましいものであるのかどうかについては、慎重に吟味しておかなければならないのである。
実際、本書は、消費社会がその根本において実現している多様性や自由をあくまで大切なものと考える。金を持つかぎりにおいて、私たちはこの社会において自分が望むものを何であれ、好きに買うことが認められている。消費が約束するこうした具体的な自由を過小評価してはならない。それはひとつにそれが、この社会では多様性の根拠になっているからである。酒を飲んだり賭けごとをするなど、たとえ愚かなことと他人から判断されようと、自分の望みをこの社会で私たちは押し通すことができ、それをもとに私たちは「私」自身であることが具体的に許されている。
けれども消費社会を乗り越えると吹聴する企ては、こうした自由や多様性の大切さについて充分な配慮を払ってこなかった。平等や環境保護を実現するためには、多かれ少なかれ国家による規制や強制が避けられないが、それが消費社会で空気のように享受されている自由や多様性を損なう危険性についてはあまり真剣に考慮されてこなかったのである。
もちろん後にみるように、経済的な公平性や環境的な持続可能性を無視してよいと本書は説くのではない。逆にそれはきわめて大きな問題として論じられるが、だからこそ大切になるのは、そうした問題と消費社会で経験される自由と多様性をいかに折り合いをつけていくのかという課題である。私たちが気に入ったところに暮らし、好きな料理を食べ、趣味の娯楽を楽しむことは、一定の論者からみれば、たいした意味のない身勝手なふるまいに映るのかもしれない。しかしそうしたささやかな楽しみこそ、日常を生きていく上での誇りや尊厳を支える重要な核になっている。そもそも私たちはそうした自由を前提として消費社会の是非について論じることさえできているのであり、本書からみれば、それを無視して、現在の、または未来の社会について考えることのほうがむしろ危険なのである。(…続く)