ちくま新書

これからの中国を支える若者たちのリアル

なぜ中国の人口は減少に転じたか? 圧縮された発展の激流の中で生きる中国人のリアル、市井の人々の「ガチな素顔」を活写した『シン・中国人』。2022年末に大転換したコロナ対策、そのとき北京で起きたことの生々しいレポートも含め、試し読みとして公開します。

中国の過去二十数年の変化は世界が未だに経験したことのない圧縮型の超高速発展だった。当然のことながら、この間中国の若者たちも大きく変化した。かつての日本人が持つステレオタイプの中国人像で彼らをつかむことは到底、不可能だ。例えば、中国の結婚平均年齢はたった10年で、戦後じわじわと変わった日本並みに高くなり、離婚率は日本の倍に、少子化も日本以上に深刻化している。恋愛や結婚に対する考え方やスタイルなど全てが変化しており、その変化のスピードは尋常でない。

中国が未曾有の速度で経済発展を実現できたのは、結果主義や競争主義を基底とした世界共通の合理主義が、中国の骨太で篤い情緒や「明日への情熱」と結びついて爆発したからかもしれない。この間、人々はとにかく「急いで」がむしゃらに合理的に成功を目指して疾走してきた。それが過去二十数年の中国の社会経済シーンだった。

しかし、急激な発展を経て今すぐに手に入る「成功」を貪る中国社会が恋愛や結婚、育児にも合理性を優先し始めたらどうなったか? 最小のインプットで最大の結果を得ようとしたら? もしくは、投入に見合うだけの「等価交換」を実現すべく相応な相手を探し始めたら? そう行動し始めた人たちにとって、本来、情緒的要素を含む恋愛や結婚という人生のイベントは大きく変質してしまった。

特に大きな変貌を遂げたのは結婚だ。近年の中国では収入、戸籍、住宅、職業、学歴、老後保障、メンツなどあまりに多くのものを詰め込んだ結果、一部で結婚は合弁会社設立のファミリープロジェクトに変質しつつある。

少子化についても然りだ。コストのかかる子どもを産むなら、合理的に「上手く」「勝ち組」に育てようとするあまり、子育ての心理的、経済的負担は爆発的に増加し、子育てを辛く苦しい生活負担へと変質させてしまった。

しかし、恋愛や結婚、子どもを育てるという情緒的な人間の営みをきれいさっぱり合理性に還元することはできるのだろうか? そもそも、幸せとは自己肯定や優しい気持ちが通い合い、心が満たされる情緒面での充実感を意味しているのではなかったか? また、恋愛は理屈では説明できないが、不思議にすてきな行為のはずだ。これらは、合理的な数値には現れないが、人間が生きていくための原動力であり、また我々の人生を豊かにしてくれるものではないだろうか。

中国の若者を追う中で見えてきたのは、合理性至上主義に則って「失敗しない」「勝ち組の」結果を追い求めた結果、人間本来の感性や感情が周辺化されている現状だ。

中国の若者の悩みはこの国の圧縮された急速な発展、熾烈な競争、文革の傷、情感や恋愛のタブー視、戸籍による縛り、高騰する住宅、脆弱な社会保障、教育の選抜システム化、人口政策、格差社会など独特の文化や制度、社会事情に端を発しているのは、本書を通して見てきた通りだ。若者たちの結婚と恋愛という切り口から、現代中国社会を織る軸糸への理解を深めてもらえたら幸いだ。

また、本書は政治面には立ち入っていないが、非民主的な体制による弊害が大きいのは言うまでもない。多様性を欠く画一化された価値観とそれに基づく過酷な競争は焦慮や閉塞感を生み、この国の健全な発展を阻害しているように思う。感覚を麻痺させ、忖度し平気で噓を語る「優等生」しか許されない窮屈な社会に創造的な未来はない。

ただ、世界を見渡せば少子化を始め、若者の恋愛・結婚離れは日本でも欧米でも起きている点は忘れてはならない。中国の場合は、独自の土壌の上に発展があまりに圧縮されたために、近代の合理主義による矛盾が極端な形で露呈している。しかし、合理主義自体は世界共通の価値観でもある。中国を特殊な国として他者化する見方はわかりやすく、手軽かもしれないが、決して有益ではないだろう。

このことは逆にいえば、我々と中国が望むと望まざるとにかかわらず、中国の若者も中国自体もすでに世界と深くつながり合っていることを意味している。いくら「長城」を築こうとも、中国を世界から切り離すことはもはや不可能だ。

2022年末に起きた突然のゼロコロナ体制崩壊劇はそのことを如実に語っているように思う。今回の振り子はこんな風に振れた。トップは市民の期待に反し、10月下旬の第20回中国共産党大会終了後もゼロコロナ堅持を宣言したので、全国の地方政府は「ゼロ堅持、感染者を出すな」と、全市民PCR検査による感染者・濃厚接触者の洗い出しと、大規模隔離を断行した。しかし、オミクロン変異株の感染スピードは驚異的で、隔離対象者は全国で億単位に膨れ上がったともいわれる。そして11月下旬以降、首都北京はゴーストタウンと化した。全寮制の大学生は引き続き校内で隔離され、小中学校もレストランも閉鎖され、バスからも乗客が消えた。

一方、時を同じくして世界に目を転じれば、カタールのサッカーワールドカップではマスクさえせずに観衆が観戦に興じているではないか! 筆者のSNSにもPCRの順番待ちの列に律儀に並ぶ中国市民と、サッカーに熱狂する観衆の2枚組の写真が中国の友人から送られて来た。文字通り別世界の2枚の写真のインパクトは強烈だった。さらにこの3年間、飲食店、映画館や小規模商店の多くが地元の管轄部門から口頭やグループチャットメッセージで営業停止を求められた挙句に倒産。からがら生き残った経営者にとっても日常が戻る気配は一向に見えない。ただでさえ厳しい地方政府の財政を全民PCRゲームはさらに圧迫し、2022年の対外貿易輸出入額も大きく落ち込み、秋から始まっていた就職活動でも大学生の就職戦線は超氷河期に直面していた。市民と経済は悲鳴を上げていた。

そうした中で11月末に起きたのが、大都市での一連の抗議活動だ。詳細と全貌は追って明らかになるだろうが、若者を中心とする市民が自然発生的に、地方政府やその末端組織の乱暴で終わりの見えないゼロコロナ政策とその管理に対する不満を唱えたのは確かだろう。「よくぞ言ってくれた!」スマホの画面に見入りながら心の中で彼らに拍手喝采を送ったのは筆者だけではなかったはずだ。

そして、このデモから2週間も経たないうちに、一滴も漏らさなかったゼロコロナは「最適化」の名の下に一夜にして決壊。激流に吞み込まれるように、街中に設置されていた通行者を検問するバリケードと24時間体制でスーパーやマンションなどあらゆる入口に設けられたデジタルPCR証明の関門所が消えた。次の瞬間、今度は北京中が「全員コロナ」の海に投げ出され、8割ともいわれる人々がクリスマスの2週間前から次々とコロナに感染。筆者も家族と周囲の大多数の友人たちと同時に感染し一週間の床についた。唯一今も心配なのが高齢者だ。

10月に東京から北京に戻った私を待っていた11日間の無慈悲な自費隔離、寒空の中PCR検査の列に加わりデジタル健康証明を祈る思いで確認し、集団隔離施設送りにおののいた緊張の日々。あれは一体何だったのか?

誰もそんなことは説明してくれないが、幸いにも中国はすでに世界の一部だ。世界とシンクロしてサッカーを楽しみ、経済は無視できない。世界がウィズコロナに移行する中で中国だけ無菌空間を貫くことは不可能だった。力任せに続けたゼロコロナ体制の突然の崩壊は、中国が世界と一体化している現実をまざまざと我々に見せつけたできごとだったように思う。

そして、中国と世界をつないでいるのが若者たちだ。若いイタリア在住中国人のツイッター情報が抗議活動でも大きな役割を果たしたと聞く。中国の若者たちは徹底して英語を勉強しており、海外文化や情報の吸収には敏感だ。彼らは世界中で全方位に食指を動かしており、世界のトップレベルを走るチャイニーズITの隆盛はその現れの一つだろう。ところが、そうしたシン・中国人を横目に今のトップは街でこれまで普通にあった英語名称やクリスマスの飾りも禁じるほど内向きで排他的な政策を鋭意展開中だ。

中国の若者はノンポリかもしれないが、世界と同期で自分の生活を楽しみたいと思う点では、海外の若者と何ら違いはない。本書で見てきたように、孤独に悩みつつも心温まる恋や結婚に憧れる気持ちも全く同じだ。つまり、トップの古風なビジョンは、市井の若者たちのグローバルな好奇心や世界レベルの自由なライフスタイルの追求からは乖離する一方だ。もしかすると、この両者の乖離は本書が見てきた現代中国に横たわる世代間ギャップによる世界一深い溝でもあるのかもしれない。

激しい歴史を経て、政治的な知恵と五感が極度に発達している「中国」は、14億人を包む集団名詞になるとその強面の政治性ばかりに光が当てられやすい。しかし、それは多面的で至極複雑な中国が外に見せる一側面に過ぎない。本書が急速に変わりゆくシン・中国人の生きたイメージを提供し、同じ現代を生きる人間として「ここから先」を共に考える一冊になることを願っている。

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