ちくま新書

日本の村はコミュニティであり知恵の発光体である
『村の社会学――日本の伝統的な人づきあいに学ぶ』第1章より

ちくま新書2月刊『村の社会学――日本の伝統的な人づきあいに学ぶ』より、「第1章 村の知恵とコミュニティ」の一部を公開します。著者は、日本の村は「知恵の発光体」だと指摘します。その真意はどこにあるのでしょうか。そして、村の知恵を未来に活かすための方策とは? ぜひご一読ください。

人間関係に迷う
 わたしたちはつねに「つきあい」という人間関係に迷っています。なぜ迷うかというと、相手との関係をよくしようと自分自身が正しくまっすぐに生きても、必ずしも関係がよくなるとはかぎらないからです。
 我と汝、自己と他者などと、自分と対比して述べられる他者(相手)は十全には理解できない存在です。そういう存在である他者によって自己が構築されるとか、他者は自己の鏡であるなどと言明されることがありますが、そうすると今度は自分自身が何者なのか分からなくなってきます。
 こうした他者たちによって自己が成り立っているという考え方は、古今の宗教、哲学に限らず、現在の人文・社会科学の指摘にも見られます。
 この「他者」との関係がなかなかうまくいきません。なんらかの知恵の欲しいところです。これはずっと昔から存在してきた課題ですので、伝統のなかからその知恵をさぐりだすことができます。たとえば仏教などの宗教にもその答えがありますが、現実の日本の社会でその答えをもっているものとして村があります。村はわたしたちの「心の故郷」として貴重ですが、進みゆく都市化のなかで村は軽んじられる傾向にあります。もちろん村には伝統的な規範が多く、現代に適合できない側面をもっていることは否定できません。ただ昨今、プラスの面よりもマイナスの面が強調されがちで残念なことです。
 村はあらゆる意味でわたしたちの故郷です。都会での厳しい仕事や生活での〝格闘〞の合間に、帰郷する場を持っている人は心強いことでしょう。
 村の風景をみたり、村に入るとなんとなくホッとしたりする人が多いと思います。なぜでしょうか。自然が豊かだからと答える人がいます。その答えは半分当たっていると思いますが、それだけなら、山や海に行けばよいのです。村には自然に加えて人の暮らしがあるのです。
 言葉を換えると、日本の村は日本社会の根源であり基礎です。自分自身の立ち返る基本として、また反省する基本としての村、その村が持っている知恵や文化を熟考する機会をもってみてはどうでしょうか。

知恵の発光体
 いま自分や自己という個人の立場からの説明をしてきました。この自己を支える地盤、それが村を典型とするコミュニティなのです。コミュニティという地盤があるからこそ、「つきあい」の知恵が発光されるのです。
 本書では、村の構造の説明からはじまって、村全体の説明をしていきます。その説明の過程で、村のもつつきあいの知恵が登場するという書き方をしました。村のつきあいの知恵を項目的に並べてその説明をするという方法はとっていません。村の構造のなかにあってこそ、知恵の本来の意味が理解できるからです。
 コミュニティがなぜ知恵の発光体になるのでしょうか。その説明はなかなか難しいのですが、わたしはイタリアの精神医療を分析した人類学者の松嶋健からヒントを得ました。松嶋は近代の精神医学と精神病院の総体が人間をモノ化したことへの批判として、コミュニティを「集合的な生の実現の場」(松嶋、2014: 379)と考えました。
 そして松嶋は個人である「私」を数字の1とし、「国家」も1、それに対して「コミュニティ」を多と位置づけました(同: 363)。これをわたしはとてもおもしろいと思いました。1と1との間に挟まれて多であるコミュニティが存在するわけです。わたしの解釈では、おそらく「国家」は法令などによって1というイメージで、1である個人の「私」に迫ってくるのでしょう。それに対して「コミュニティ」は多が存在するところだというのは、そこが“複数の人びとによる生活の展開の場“であるからではないでしょうか。
 松嶋が多であるコミュニティが人間をモノ化から解放すると判断したように、個人である自己は複数の他者によって成り立つコミュニティにつねに〝出入りする〞ことが大切なようです。

コミュニティとは
 繰り返しますが、村はコミュニティでもあります。本書における村とコミュニティとの意味の違いについては、後で徐々に述べることにして、最初にコミュニティという用語で説明をしていきます。さて、なぜコミュニティがわたしたちに必要なのでしょうか。
 もっとも根本に戻っていえば、現在、日本社会で進行しているわたしたちひとりひとりの「孤立・孤独」と、それはかかわっています。恋愛さえも、過去と比較すると、社会的に開かれないようになり、ふたりだけで完結するような閉じた孤立した世界に変貌しつつあります。死ぬということも同様に孤独化していっています。先ほどの松嶋の例でいうと、多ではなくて1とか2になっているわけです。
 けれどもいまは、そこまで掘り下げないでおきましょう。コミュニティの必要性は、わたしたちにしっかりした家族が必要なのととてもよく似ている、という分かりやすい言い方をして、そこから考えをはじめましょう。
 家族がなくても幸福に生きている人がいます。それと同じように、コミュニティがなくても、精神的にも人間関係的にもストレスなく生きていける人もいます。しかし、一般論でいっても政策論でいっても、これらふたつはともに必要なのです。
 とりわけ日本の社会には、村(コミュニティ)を社会基盤として生活を保持してきた長い伝統があります。もっとも村のようなコミュニティはほとんどの民族がもっています。それが大切であったからです。その中でも、日本の村は長い歴史のなかで工夫に工夫を重ねて、風土に根ざした固有の生活パターンを形成しました。それは固有の文化ともいえるでしょう。つまり日本のこの組織は、わたしたちの財産であり、近ごろはやりの表現を使えば、わたしたちの「社会(関係)資本」(ソーシャル・キャピタル)ともいえます。そのため、将来に向けてもこれを使わない手はありません。
 

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