ちくま学芸文庫

テイラーを理解するための格好の入り口
チャールズ・テイラー『〈ほんもの〉という倫理』解説

個人主義や道具的理性がもたらす不安に抗するには「〈ほんもの〉という倫理」の回復こそが必要だと説く、現代を代表する政治哲学者チャールズ・テイラーによる名講義『〈ほんもの〉という倫理』。「〈ほんもの〉という倫理」とはいったいなんなのか、また『自我の源泉』から『世俗の時代』へと至る研究人生において本書はどのような位置を占めるのかについて、政治思想史がご専門の宇野重規さんが解説を寄せてくださいました。

 チャールズ・テイラーという人物を私たちはどのように捉えるべきなのだろうか。あらためて強調するまでもなく、テイラーは現代を代表する政治哲学者の一人である。テイラーというと、「リベラルーコミュニタリアン論争」の文脈で記憶する読者も少なくないだろう。あるいはカナダのケベック州出身であるテイラーによる、多文化主義をめぐる議論を想起する人もいるはずだ。さらには、美学や美術史にも通じたテイラーが近代西欧における「自己」の形成を論じた『自我の源泉』こそが、彼の主著だとする考えもありうる。

 しかし大著『世俗の時代』に集大成されたように、近年のテイラーは宗教哲学者としての相貌を色濃くしている。近代化と共に必然的に世俗化が進行するというマックス・ウェーバー以来の伝統的な「世俗化」論に挑戦するテイラーは、「世俗化」の意味を問い直すと同時に、現代社会における宗教性の行方に注目している。これまでも数々のテーマで世界の議論を主導してきたテイラーは、いまや「ポスト世俗(化)」論の主人公の一人でもある。そのような視点から振り返ると、テイラーの過去の著作にもまた、彼の宗教哲学的関心が貫かれているように思えてくる。

 それでは、テイラーの長い研究者人生において、『〈ほんもの〉という倫理』はどのような位置を占めるのだろうか。一九九一年のカナダのラジオ番組の内容をもとにする本書は、「リベラル│コミュニタリアン論争」や多文化主義をめぐってテイラーが活発に議論を展開していた時期の、ほんの合間に書かれた作品にも見える。刊行されたのが大著『自我の源泉』の二年後であり、いかにも小品という印象を与える。後年(特に世紀末から二十一世紀以降)に顕著になる宗教哲学的色彩は、まだそれほど強くない。

 そうだとすれば、『〈ほんもの〉という倫理』の意義は小さいのだろうか。そうはいえないと思う。ある意味で、本書には、彼が展開した多様な議論のエッセンスが濃縮されている。その気になれば、その後のテイラーの〈宗教論的転回〉を予告するものとして理解することも可能である。何より、一般の市民に向けて語ったときのテイラーのソフトな語り口が魅力の本書には、固有のおもしろさや読みどころがあるように思われる。

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 最初に触れておかねばならないのは「〈ほんもの〉」であろう。〈ほんもの〉というのはauthenticity の訳語であるが、これが少し難物である。硬く訳せば「真正性」であろうが、いずれにしてもニュアンスが分かりにくい。

 といっても、雑誌の記事などで、最近では「オーセンティックな」などという言葉を見かけることも珍しくなくなっている。高級なレストランや服飾品を語る際に、「オーセンティックな輝き、雰囲気」といった表現が、(いささかの気取りを込めて)使われることもある。チャチな大量生産ではない、〈ほんもの〉であるという点が強調されており、コピーや偽物ではないことが重要とされる。とはいえ、これはテイラーの意図しているものとは少しずれているように思われる。

 テイラーによると、〈ほんもの〉という倫理が産声をあげたのは十八世紀末である。それ以前の、デカルトやロックに代表される十七世紀の個人主義に対する批判として生まれたこの倫理は、ロマン主義時代の落とし子でもあるとテイラーはいう。十七世紀の個人主義がとかく自分の頭を使って物を考えることを強調し、社会との関係よりも自らの人格や意思を重視するものであったとすれば、〈ほんもの〉の倫理は個人の内面から発する道徳性や共同体的紐帯をより重視する。「自己との対話」や「他者とのふれあい」こそが大切であるとテイラーは強調する。

 問題は、この〈ほんもの〉というニュアンスが、現代日本において十分に理解されるかどうかである。テイラーの意図を捉えるためには、場合によっては、「自分らしさ」といった言葉を補ってみてもいいかもしれない。筆者が『〈私〉時代のデモクラシー』(岩波新書)で論じたように、「自分らしさ」は現代のキーワードである。誰もが「僕らしさ」「私らしさ」にこだわり、また至るところで「あなたらしさ」を問われる。平等といっても、「みな同じ」では満足できない現代人は、「一人ひとり(少なくとも他人と同程度には)みな違う」ことを求めるのである。それゆえに、「自分らしさ」は誇らしいものであると同時に、(どこか)強迫的でもある。

 ある意味で、十八世紀末に誕生した〈ほんもの〉の倫理は、二十世紀後半になって、少なくとも多くの「先進国」とされる国々で大衆化し、当たり前のものになったのだろう(このあたりの文脈はテイラー自身によって、『世俗の時代』において詳細に分析される)。しかしながら、本書において〈ほんもの〉は、むしろそのオリジナルの可能性が積極的に強調されているように思われる。

 個人は自己を掘り下げ、自己との対話を繰り返すことによって、より豊かな道徳性の源泉に触れることが可能になる。自分というものを考えるにあたって、抽象的に「自分らしさ」を考えるだけでは必ず行き止まりにぶち当たる。自分という存在がどこから来て、どこに行くのか。このことを考えれば、自ずと大切な過去の出来事や他者との対話が思い出されるはずである。このような「重要な他者」との関係によって築かれる道徳的な「地平」こそが、「自分らしさ」を生み出し、〈ほんもの〉の倫理をかたちづくるとテイラーはいう。

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 それにしてもテイラーの位置づけは難しい。一方で彼は、現代世界において道徳の地平が失われることを危惧し、すべてを合理化する道具的理性の優位に警告を鳴らし、他者と共にある政治的自由を擁護する。問題の根源にあるのは(個人を分離した原子のように捉える)近代個人主義のアトミズムであるとするテイラーは、まさにコミュニタリアン(共同体論者)の論客であろう。

 しかしながら、テイラーは同時に、現代の個人主義をエゴイズムや快楽主義、あるいはミーイズムであると批判するアラン・ブルーム(『アメリカン・マインドの終焉』)、ダニエル・ベル(『資本主義の文化的矛盾』)、クリストファー・ラッシュ(『ナルシシズムの時代』)らとは明確に一線を画する。彼らはいわば現代の文化的保守主義者といえるだろうが(テイラーは「文化的ペシミズム」と呼ぶ)、自分は彼らとは違うというのである。テイラーにいわせれば、彼らは自分たちの批判する「自己達成の個人主義」に秘められた力強い理念、すなわち〈ほんもの〉の倫理がわかっていない。彼らはむしろその倫理の堕落形態を批判しているに過ぎないというのである。

 そうだとすれば、堕落していない方の〈ほんもの〉の倫理の説得力こそが問題になるだろうが、その判断は本書を読む読者に委ねるしかない。

 テイラーは、個人の選択それ自体を目的とする立場をとらない。もちろん他者の選択について、私たちは干渉すべきではない。すべての個人は自分のアイデンティティを発展させる平等な機会を持つべきだからである。それでもあらゆる個人の選択の内容は等しく尊重されるべきであり、その中身について評価することはできないという完全な相対主義を、テイラーは取らない。選択には意味のある選択と、そうでない選択がある。その違いは、一人ひとりがいかに自己と対話し、自らの道徳的地平を自覚するかにかかっているとテイラーはいう。

 個人はいかにして「自分らしさ」を発見するのだろうか。テイラーはヒントを「表現(expression)」に見出そうとしている。言い換えれば、私たちは何かを創造することによって初めて自分を発見できるという。ここでテイラーは得意の芸術論に話題を展開する。

 かつての表現者、例えばシェークスピアは、自分の表現の背景に、人々の間で共有される公的な意味の秩序を前提にできた。ダンカン王の死は、「王殺し」として語られてきた宗教的・文学的・美術的な一定の了解、あるいは参照点によって理解された。少なくとも劇作家はそれを期待できた。しかしながら、今日の芸術家や詩人は、そのような公的な意味の秩序を前提にはできない。それゆえに表現者は自分をとりまく世界を象徴として捉え、それが自分のうちにどのような感情を生み出すかを理解しなければならない。そしてそのような感情を「秩序」として表現することで、それに共鳴する感性の持ち主に理解される。

 このことは現代的な自己発見に何を示唆するだろうか。私たちは自己を見つけるために、まず自らの内なる感情を深く探らなければならない。その感情は自分にとっての世界の反響であろう。その反響のうちに何らかの秩序を見出し、それをかたちあるものとして表現する。それが「自己発見」であり、この営みを通じて、似たような感性を持つ他者への広がりを持つようになる。このようにして、人は自らにとって意味ある道徳の「地平」を見出し、その地平においてのみ〈ほんもの〉の倫理を持ちうるのである。

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 後年のテイラーであれば、このような〈ほんもの〉の倫理を、より宗教的なものとの関連において捉えたであろう。しかしながら、本書『〈ほんもの〉という倫理』では、宗教哲学的な含意はそれほど前面には出ていない。むしろ現代個人主義の両義性を、テイラーならではの、政治や社会から美術や文学までを自由に行き来する魅力的な語り口で解きほぐしている。階層社会を前提にした「名誉」から、平等社会における「尊厳」への移行など、興味深い論点も多い。今、テイラーを読み直すなら、本書は格好の入り口になる本なのではなかろうか。

 

(うの・しげき 東京大学教授 政治思想史)

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