ちくま新書

開発の舞台裏から挑発の意図まで
金正恩が描くシナリオとは?

日本を敵視する独裁国家が核保有したことで、日本の安全保障は大きく変わろうとしています。ミサイルによる挑発、核開発のカネやヒト、見え隠れする中国とロシア、そして暴発・暴走の危険性まで。北朝鮮の虚実交えた生き残り戦略を読み解く『金正恩の核兵器――北朝鮮のミサイル戦略と日本』の冒頭を公開します。

†イーロン・マスクと金正恩
「世界192カ国中115位の経済力で世界の構図を一変させた。北朝鮮は地球上のどの国よ
りも速く新たなミサイル、新たな能力、新たな兵器をつくっている」
 米軍制服組ナンバー2の統合参謀本部副議長だったジョン・ハイテンの言葉だ。北朝鮮の弾道ミサイルと核兵器開発は日韓だけでなく米国を脅かすに至った。その急速な進展の背景についてハイテンは、金正恩朝鮮労働党総書記が祖父の金日成主席や父の金正日総書記と違ってミサイル発射実験で失敗しても技術者らを罰することなく柔軟に問題を解決している点にあると分析した。
 ハイテンは米空軍の技術将校出身。父はアポロ計画に使われたサターンⅤロケット開発に参加したといい、「私は生まれてこの方ずっとロケットやミサイルにかかわっているから、それがどういうものか知っている。もしミサイル開発を早く進めたいのなら、早くテストし、早く実際に飛ばし、早く学ぶことだ」。米起業家イーロン・マスクが創設したベンチャー企業「スペースX」が民間ロケットの発射実験で地上激突や爆発など失敗を繰り返しながらも、その失敗から学びスピード開発につなげていることを引き合いに出し、「北朝鮮はまさに同じことをやっている」と指摘した。
防衛省の集計によると、金正恩体制下での弾道ミサイル発射は2012〜22年の11年で150発超を数えた。18年間で16発の金正日体制と比べて段違いに増えた。核実験も弾道ミサイル発射実験も行わなかったのは初の米朝首脳会談が開かれた2018年だけだ。とりわけ22年の弾道ミサイル発射は59発に上り、このうちICBM級が7発2。いずれも過去最多で、世界を見回してもこれをしのぐ規模で発射実験や発射訓練を行っているのは中国以外にない。
 北朝鮮のような貧しく孤立した国が核兵器をつくれるわけがない。水爆も衛星打ち上げも大言壮語だ ―― 。国際社会は常に核への執着を過小評価し、甘い見積もりをことごとく裏切られてきた。北朝鮮が一方的に核保有を宣言した2005年2月当時、筆者を含めて緊張を高めては支援を引き出そうとする金正日の「瀬戸際戦術」との見方が多かった。しかし北朝鮮はその後、計6回の核実験を強行。このうち4回は金正恩体制下で行われ、7回目の準備も終えたとされる。今世紀に入って爆発を伴う核実験を行ったのは北朝鮮のほかになく、国際社会はいつからか北朝鮮を事実上の核保有国として対処するようになった。
 日本政府も2020年の防衛白書以来「北朝鮮は核兵器の小型化・弾頭化を実現し、これを弾道ミサイルに搭載してわが国を攻撃する能力を既に獲得したとみられる」と明記している。中国の軍事力増強もさることながら北朝鮮の核・ミサイル開発により日本を取り巻く安保環境はこの10年で一変した。
 
†「反撃能力」議論の内実
 2019年2月の米朝首脳再会談決裂後、北朝鮮は弾道ミサイルの発射を再開。変則軌道で飛行する固体燃料ミサイルの開発を急進展させた。日本を射程に収めるミサイルに応用された場合、巨額を投じてきた現行のミサイル防衛(MD)による対処は一層困難となる。岸田文雄政権は22年12月、「国家安全保障戦略」など安保関連3文書を閣議決定し、「反撃能力」という名に変えて、相手領域内のミサイル発射基地などを破壊する敵基地攻撃能力の保有を明記した。「矛」は持たないとしてきた戦後政策の大転換である。ただ、政府や防衛当局者が敵基地攻撃能力の必要性を唱えるとき、その多くが念頭に置いている仮想敵国は北朝鮮ではなく中国だ。匿名を条件に話を聞けば、中国に対処するための防衛力整備に「北朝鮮の脅威」を利用してきたことを隠さない。しかし、日本を敵視し、国交もない独裁国家の隣国が核武装したという事実は重い。北朝鮮の核戦力は開発段階から配備段階に移行し、その軍事ドクトリンに組み込まれ始めている。
 軍事的脅威の度合いは「能力×意図」、さらに一つ加えて「能力×意図×機会」のかけ算とも言われる。北朝鮮の核・ミサイル能力が進展しているのは確かだが、その実態は謎だらけだ。北朝鮮の核保有は米韓の攻撃を抑止し、独裁体制の維持を図ることが主な目的だと一般に理解されている。「核を使えば金正恩体制は一巻の終わり。だから使わない」との見方も多いが、はたしてそう言い切れるか。能力が高度化すれば意図は変わり得る。
 国際政治学の泰斗グレアム・アリソンは米ソが核戦争の瀬戸際に立った1962年のキューバ危機を分析した著書『決定の本質』で「ありそうにないこと」と「あり得ないこと」はまったく別物だと喝破した。北朝鮮が日本を核攻撃する可能性はないのか、あるとしたらどのようなシナリオがあり得るのか、その機会を封じるにはどうすべきなのかは、日本の安全保障において正面から考えるべき現実的問題となっている。

†本書の構成
 第1章では北朝鮮がなぜ核兵器開発に着手し、いかにして高度化させてきたのかを探る。北朝鮮の核開発の時代背景としては大きく三つの転機があったと考えられる。①金日成に核開発を決断させた朝鮮戦争、②冷戦終結による体制不安と経済難を背景にした瀬戸際外交、③2000年代のイラク戦争とリビア内戦におけるフセイン、カダフィの死。そして、冷戦終結時に核兵器を手放したウクライナへのロシア侵攻は四つ目の転機となるのかもしれない。国連制裁と経済難に苦しむ独裁国家がどこから核・ミサイル開発の技術や材料、資金を調達しているのかについても考察する。
 第2章、第3章ではトランプ米政権下に起きた米朝危機、そこから転じた史上初の米朝首脳会談の内幕を関係国当局者の証言や、トランプと金正恩の往復書簡を基に検証する。2017年の軍事的緊張は一般に知られるよりもはるかに深刻な一触即発の段階に達していた。金正恩とトランプ、そして文在寅韓国大統領という特異な3人の個性が対話への劇的転換をもたらし、軍事衝突は回避されたものの、その後の米朝交渉で改めて明らかになったのは米朝間の隔たりの深さ、そして核・ミサイル問題だけを切り離して論じることのできる段階は過ぎたという厳しい現実だ。米国や日韓が唱える「検証可能な完全非核化」という目標は空洞化してしまったと言わざるを得ない。金正恩にとって「核保有国としての戦略的地位」は体制維持と切り離せず、内在化されている。
 第4章では北朝鮮が実際に核を使う可能性があるのかという本書の最も核心的なテーマを扱う。核・ミサイル開発の進展に合わせ、北朝鮮の軍事戦略も変化している。兵器実験や軍事パレード、金正恩の演説などからその核ドクトリンを探り、核抑止が虚実ないまぜの心理戦であることを示す。実戦での戦術核使用の可能性を公言し始めた北朝鮮の核管理の危うさにも焦点を当てる。
 第5章は米中、米ロ対立という大きな文脈の中で北朝鮮問題の位置付けを捉え直し、関係国がどう対応しようとしているのか現状を紹介し、日本の課題を探る。

†情報源
 本書は主に、①北朝鮮の公式報道や政府発表、②各国政府や国際機関、シンクタンクの報告書などのオープンソース、③北朝鮮政府関係者や各国政府当局者、脱北者への直接取材や独自に入手した資料――の三つを基に執筆した。各国メディア報道について直接確認できないものの真実である蓋然性が高いと判断したもののほか、信憑性を判断する材料が不足しているものの事実であれば重要な意味を持つと判断した場合に限り引用した。
 北朝鮮報道に携わって約20年になるが、「閉鎖国家」とも呼ばれる独裁国家の実像に迫るのは容易でない。テレビや新聞、雑誌、インターネットに北朝鮮関連の情報はあふれているが玉石混淆、検証不能なものも多い。ジャーナリズムでは「裏を取る」こと、複数のソースで確認するのが基本だが、北朝鮮に関して裏が取れるのは極めてまれである。ワシントンで聞いた話を東京やソウルで確認して書く、またその逆も多かったが、日米韓当局が同じ出所から話を聞いていたり、情報を共有したりすることも考えられ、必ずしも真実とは限らない。しかし複数のソースで確認が取れるのを待っていたら永遠にお蔵入りだ。そこで、情報源が1人または1組織であっても、信頼度が高く、かつ他の当局者や専門家の意見を聞いて矛盾がないと判断した内容も本書には盛り込んだ。また、米政府の公式の報告書であっても目を引く記述は出典を見ると日本や韓国メディア報道であることも多い。ケースバイケースだが、こうした場合、報道を引用する体裁をとっているものの実際は当局が把握している内容と一致していることがほとんどだ。当局として公表して注意喚起したい情報であるものの、情報源秘匿や友好国との関係から直接情報としては書かず、内容の一致する報道を探してきて引用の形にするのである。
 筆者はソウル、ワシントンでの勤務を経て2018年から21年秋まで3年3か月、共同通信社平壌支局長として北京に駐在した。いろんな事情があって北京時代に訪朝することはなかった。その代わり、中国で北朝鮮人や朝鮮族と酒を酌み交わし、中朝国境を歩いた。北朝鮮が20年、新型コロナウイルス対策として国境を閉じ、人の往来がなくなると内情を探るのはより困難になった。本書では可能な限り情報の出典を明示するよう心がけたが、情報源の性質上、実名を出せないものも多い。脱北者情報も引用したが、実名取材に応じてくれた米在住の李正浩氏を除いては匿名だ。証言を引用したその他の脱北者は原則として北朝鮮政府や国家機関、軍で勤務した経験がある人物に限った。

 

【目次より】

序 章 世界最速のミサイル開発

第1章 核武装の動機と秘密ネットワーク

第2章 前線となる日本――米朝危機の内幕

第3章 金正恩の誤算――往復書簡を読み解く

第4章 北朝鮮の核ドクトリン

第5章 軍拡の時代

終 章 終末時計の残り時間

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